第47話
糸を吐きだした蚕を箱から団扇の骨に移動させる。十匹ほどの蚕が団扇の上で糸を吐く。糸が平面になっていることに気づきもしない。時々一か所に集まって隣の蚕の体に糸を吐くのもいる。そんなことをされても気づかない。糸を吐いてない場所に移動させて、じっと観察を続けた。
十二時。まだ彼は来ない。別にどうということはない。
糸を吐く蚕は白から少し黄味を帯びるらしい。そんなことに気づいたころ、赤い糸を吐かせるために赤いマジックで塗った蚕と、食紅を塗った桑を食べていた蚕が糸を吐きだした。
細い糸は他のと変わらぬ白だった。
なんだか、笑えた。
あんなに必死で息を吸う気門にマジックを塗らないようにきをつけていたのに、水がだめだから水溶き食紅を塗ったあと水分がとぶまで乾かしていたのに。
ははは、と笑ってみた。
気づけば立ち上がっていた。
彼の部屋を出て、歩き出していた。いつも彼は堤防を歩いて帰ってくる。きっと途中で会える。
街灯一つない堤防を歩いていく。きっと今なら言えそうな気がした。生茂ったススキが風に揺れる。真夜中のススキは真っ黒だった。ざわめく声に似たそれに立ち止まった。
あの日、花火を見たのもこの川だった。思いだせば足取りが重くなった。堤防を歩く人影はない。きっとまだ帰りではないのだろう。待とう。川沿いの公園に下りた。
ベンチも遊具もない公園だ。川べりに立って、ただ川面を眺めていた。暗い川面が時々何かに反射する。足元で時々がさごそと何かが動いた。蛇かもしれないと思ったけれど、こちらに来ないのならそれでいい、と思った。彼が通るはずの橋を見上げた。
酔っ払いが二人、調子の外れた歌を歌って通り過ぎたけれど、十分たっても二十分たっても三十分たっても章は来なかった。
「別に約束してたわけじゃないし」
ガソリンみたいな黒い勇気は夜の寒さとともに燃え尽きてしまいそうだった。それをなんとかしたくて、川辺に腰かけて足先を水につけた。心がしゃんとなった。もう少し。向こう岸まで歩いて渡ろう。決めた。
一歩足を踏み出した。思ったよりも川は深い。一気に膝まで水につかった。
一歩、一歩。生ぬるい苔の感覚。月に照らされる水面。その奥に沈んでいるガラス瓶が光っていた。一歩、一歩。向こう岸へと歩いていく。徐々に深くなり太ももまで濡れる。早い流れに転んでみようか、と見下ろした。進むための抵抗は感じるが水面は波一つない。ただ、深くなっていく。それだけだ。振り返れば桜の木が真っ黒に染まっていた。ススキがゆれる。苔の生えた大きな石にわざと乗った。転んだりしなかった。そのうえで何度か飛び跳ねて見る。何度目かで世界が回った。夜の川は痛かった。流れていったりしなかった。自分はかなり質量があるらしい。川の中、顔だけ浮かべて空を見た。不思議な音が流れていく。水のぶつかる音と、空気が移動する音、草が踏まれる……章がいた。
「ゆかり!」
静かな川がなくなっていく。大きな水音とどなり声。
何もしないで空を眺めていると、近くで彼は止まった。濡れていた。
「何やっているんだ!」
こんな風に彼を見上げるのは初めてだ。影の落ちた焦った顔も乱れた髪もおかしい。
目を閉じた。
「おい」
焦った声に笑った。おかしかった。
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