第46話

翌日、彼は今日は職場の飲み会だと言った。その言葉が嘘か本当か分からず躊躇う私に彼は笑った。


「お帰りと言ってほしい」


当たり前のように、そっと抱きしめられる。


「それに、そろそろ蚕も繭を作るころだろう? 絹の団扇を作ってみたいって前、言っていただろう。俺も見たい」


彼は私の頬にキスをした。そういえばそんな話をしたかもしれない。

夕方、迷ったけれど私は章の家に帰っていた。当たり前のように合鍵を出して開ける。そこに人の気配はなかった。シャムシャムと桑を食む音だけだった。ふたを開けようとして止まった。なにかが張り付いていた。力任せにはがせば、箱に足場のように糸を張り巡らせ、糸で繭の輪郭が出来かけていた。


「わ、わわ」


まさか今日繭を作り始めているとは思わなかった。箱を見れば糸に絡まった糞と一部黄色くなった糸があった。蚕蛾は繭を作るとき放尿する。最初に体内の余分な物を出してから繭を作るためらしいが、その際に糞も出したのだろう。きれいな白い糸が黒と黄色で汚れていた。白くきれいな繭には不要のものだ。汚れた糸を千切るとゴミ箱に捨てた。


絹糸の団扇を作るために、家から持ってきた団扇の紙を剥いていく。水につけながら、すべて剥き切り、竹の骨だけの状態にする。持ち手の部分をのぞき、段ボール団扇より一回り小さい円を作る。その上に骨だけの団扇をのせ、その上に蚕をおいた。面積の大半が段ボールでここに糸を吐きつけていっても段ボールに張り付くだけの気がしたが、何事もやってみないと分からない。


自分の居場所を確かめると蚕はゆっくりと糸を吐き出した。頭を左右に振って、竹に糸をのせていく。桑を食べている蚕は逃げないが、繭を作るようになった蚕は繭を作るにふさわしい場所を求めて移動する。蚕は高いところへ行く習性があるらしいので、小さなゴミ箱の上に団扇をのせた段ボールをのせた。まさか二十センチの高さをダイブしないだろう。熱に浮かされたように一連の作業をしてようやく息をついた。

どれだけ自分が落ち込んでいたのか思い出す。そしてあまりにあっけなくそれを忘れていた自分に頬が緩んだ。


「かわいいな、おまえ」


糸を吐き始めた蚕は思った以上に行動的だった。絹の団扇をつくろうという思惑に反し、団扇の柄に行ったかと思えば、段ボールの裏に回りゴミ箱との隙間の角に繭を作ろうとする。そのたびに団扇の中心につまみ戻す。そんなことを何度も繰り返すうちに気づいた。二人がけのソファ。ローテーブル。床に腰をおろし、ソファに背を預ければ、台所で料理する人の姿が見えるのだ。人が、私が来て共に過ごすことを前提に配置された部屋に彼と私の違いを思い知る。彼がいたときは部屋のことになど気づかなかったのに、彼がいなくなっただけで全てのものが彼がいたことを主張する。


「会いたい」


九時になって、十時になって十一時になって。

彼は来ない。

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