五齢

第45話

「おかえり」


玄関を開けると、章は笑った。


「ただいま。話があるの」

「そう。上がって。蚕も大きくなったよ」


大きな手がそっと差し出された。

そう言われて初めて蚕の存在を思い出した。

蓋をあければ、一晩いない間に、大半の蚕が四眠を終え、五齢になっていた。四齢でも想像していた蚕という感じの大きさだったが、五齢は以前と比べ縦にも横にも大きくなった。資料写真で見る蚕そのものだ。数匹はまだ四眠のままか、じっと動かない。


「すごいだろ。一生のうちの桑の大半を五齢で食べるっていうだけあって、もうすごい勢い。葉脈だろうが、なんだろうが食べれるところは食べるっていう感じでさ。冷蔵庫にあった桑も食べきっちゃってたからちょうど取りに行こうかと思っていたところだったんだ」


ほら、と見せられる写真は四眠から五齢へと移り変わる蚕。脱皮途中を細かにとった写真はコマ送りのフィルムみたいだった。


「どれだけ見てても飽きなくてな」


章は言う。その横顔を眺める。小さなころに鉄棒から落ちたという章の右頬は少しだけへこんでいる。こんな風に起きている彼の横顔をまじまじと眺めたことはなかった。


「あの、さ」

「そうだ。コーヒーいれるよ。ゆかりもゆっくり観察したいだろ?」


彼は笑う。


「話があるの」


立ち上がった彼の服をつかんだ。ため息をついた彼はぽんぽんと私の頭を二度なで、ちょっと待ってろと台所へ向かった。すれ違う、笑顔。

引きとめることも出来ずその後ろ姿を見送った。


勢いよく桑の葉を食べる蚕を眺める。ぷにぷにの物体は多少触ったくらいでは食事をやめたりしなかった。桑の葉を上からたらせば、背をそらせて、さらに新鮮な桑を求めて体を左右に振った。小さかったころは器用に葉脈だけを残して柔らかい部分だけを食べていたのに、今では口に入ればなんでも同じとばかりに勢いよく食らいつく。それが、面白い。

章が戻ってきた。コーヒー風味牛乳の入ったマグカップを差し出される。


「かわいいよな。結婚式はどうだった?」


雑談のつもりだったのかもしれない。だけどそれは私にとって先制パンチだった。


「きれいだったよ」


笑う。蚕を見ながら。桑を揺らしながら。章もまた隣に座り一緒に蚕を見る。二人並んで左手にマグカップを持ち、右手に桑の葉を持ちながら。


「そう。お兄さんにおめでとうって伝えてくれた?」


章は言う。私は頷く。シャムシャムと蚕は食べる。肩の触れ合う距離。コーヒーの匂いが香る距離。


「それで、話なんだけど私たち」

「写真、渡してくれた?」


章は言う。ストレートど真ん中。私は次の言葉を見失う。頷く。


「全部?」


長い、長い息が聞こえた。章の息か、蚕の音か私のものか、わからない。


「そう」


くしゃくしゃと頭をなでられた。何を話したかったのか全部忘れてしまった。


「する?」


章は右手の桑で、私の手の甲をそっと撫でた。

育った濃い緑の桑の葉。指の先で次の葉を求めて蚕が動く。人差し指をのぼり、手の甲の桑の葉を食み出す。

手の上の小さな命を眺めながら、私は首を振った。


「そ」


章は桑の葉から手を離した。


「章」

「うん?」


彼は微笑んでいた。


「あの……」

「うん?」

「今日は見ていたい」


彼は蚕に目を落とす。


「ああ、そうだな。そうしよっか」


私は頷く。

私が初めて彼の誘いを断った日、私たちは一晩じっと蚕が桑の葉を食べるのを眺めていた。

何も変えられない夜だった。

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