第43話
家に帰ると、兄は暢気に寝ていた。頭に浮かんだどうしようもないことを打ち消すようにタオルケットを兄にかける。寝返りを打った兄の肩からタオルケットが落ちていた。私は見ないふりをした。
結婚式の朝、目を覚ました兄は酔っ払っていたという漠然とした記憶以外何も覚えていなかった。頭いてエ、とうめく兄に母はしっかりしなさいよ、とため息をついた。ここまできて反対する気はないらしい。
「ゆかり、おれ昨日なんかした?」
「何、覚えてないの。酔っ払いが迎えに来るわ、妹に絡んでくるわで、帰ってくるのも大変だったんだから」
「マジか」
「嘘だよ。半分は本当だけど。それより二日酔いの花婿なんて格好悪いから式までにはなんとかしてよね」
由美子に嫌われるよ、そういえば兄はそそくさと洗面所へと歩いていく。
後姿を見送っていた母と視線があった。顔を見合わせ、同じ空気を共有する。フライパンへと向かう母の背中はいつもより小さく見えた。
どんな結婚式もそれは花嫁のためである。高砂から一番離れた親族席、母は私の顔をまじまじと見つめた。
「昔からそうだったものねえ」
「何が」
「あの子は石橋だろうが何だろうが勢いだけで渡って後で後悔するような子だったけど、あんたはねえ」
そこで母親はもう一度高砂にいる兄を見て私を見てため息をついた。
「めでたい席でしょう」
その後に続く言葉が予測できて私は話をさえぎったが、母は止めるつもりはないようだった。
「まったくあんたはいつだって石橋を金鎚で叩いて叩いて、割っちゃう子だから」
「石橋は金鎚じゃ割れないでしょ」
「ほらそういうところ、かわいくないから。この間の章君だっけ、しっかり捕まえておきなさいよ」
余計なお世話である。
「今日はありがとう」
この時ばかりは誰もが逆らうことを許されないのが花嫁という生き物で、この時だけは女王様でお姫様の生き物に、にっこりと笑っておめでとうと告げる。それが結婚式というものに招かれた人間の宿命だ。今まで何度もこなしてきたそれが、今日だけはうまく表情筋が動かない。それでもこれまでにあった楽しい出来事を無理くり思いだす。そのどれもに兄がいた。
笑え、自分。
「ありがとな」
兄は笑う。照れくさそうに、嬉しそうに、誇らしそうに。幸せというのはきっとこういう笑顔をする人間のことをいうのだろう。さりげなく、段差を下りる由美子に手を差し出す。由美子ははにかむとリングの光る手をそっと重ねた。
おめでとう、と笑って言えたのかは覚えていない。
辞去を述べて、私の日常にはない可愛らしいブーケとゴシックな建物をあとにする。からりと空は晴れていた。
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