第42話

知っていた。そんなことは嫌というほど知っていた。私は静かに身を起こすと、家を出た。

深夜のコンビニは明るかった。こんなところにいてもどうにかなるわけでもないのに、訳もなく車止めに腰を下ろし、虫の声を聴きながら飲みなれないブラックコーヒーの缶を開けた。

反応できなかった。たった二文字を言うだけで、こんなにも苦しくて、びびっている。だがそんなことで価値が変るのなら当の昔に決着が着いていたのだ。のどが痛くなるほどつぶやいた後で努力の無駄と、空しさに気づいた。

香りがいいと評判のコーヒーはただ苦いだけの代物だった。


「何やってんの?実家戻っているんじゃなかったの」


和也が立っていた。何でここにいるのか、とか何をしているのかとか大人として教師として言うべきことはあったけれど、何も言う気になれなかった。


「兄貴にでも会いに来たの」


どこか蔑むような言葉もどうでもよかった。


「そっかぁ」


冷たくなった膝を抱きしめた。

大人になってから兄の寝顔を見るのは初めてだった。兄の寝顔は章に似ていた。そんなことに気づいてしまえば、どうしようもなかった。


こんな時でも私は章を求めている。同じだけの感情を返せないけれど、確かに私には章が必要だった。なんで、人は恋などするのだろう。同じだけの感情を返せないことがこんなに苦しいのだろう。もっと緩やかな繋がりの中で、ともに生きていたいのに、それはどうして認められないのだろう。


「どうして私は女なのだろう。男だったら、もっとずっと……」


涙があふれた。あんた、と隣で和也が息をのんだ。だけど止まらなかった。堰き止めていた感情があふれ出せば止めることなどできなかった。壊れたように私は泣き続けた。兄が結婚することが悲しいのか、恋が実らないことが苦しいのか、章と同等の感情を返せないことが苦しいのか、自分でももう分からなかった。すべてがないまぜになったまま、泣き続けた。


「あの、大丈夫ですか」


どれだけ泣いたのか、不審に思った店員に声をかけられ我に返った。私の顔を見た店員はぎょっとした顔をすると、私と和也の顔を見比べた。


「大丈夫ですか?」


通報しましょうか、と言外に含まれたその問いに和也は焦ったように「姉です」と告げた。


「振られたんで、慰めているんです!」


店員は疑わしそうに和也と私を見比べた。


「すみません。大丈夫です」


私が答えると、店員は店内に戻っていった。

深夜から早朝の気配を含みはじめる空の色。ずっと隣に立っていたらしい和也の腕に鳥肌が立っていた。


「似ているね」

「は?」

「やさしさが分かりやすそうで分かりにくいところが、お兄さんと似ている」

ありがとう、と言えば和也はものすごく嫌そうな顔をした。

「あんた、ものすごく馬鹿なんだな。大人のくせに」

「大人なんて、年食っただけの子供だよ」


涙を拭いて立ち上がる。


「送っていくよ。突き合わせてごめんなさい」

「いい、兄貴が心配するから」

「だから、送っていくって」

「あんた、本当馬鹿なんだな。実家に帰っているはずのあんたが俺と一緒に帰ったら兄貴が俺とあんたの間になんかあるとか思うの」

「まさか」

「俺の方があんたより兄貴と付き合い長いんだからな」


和也は威嚇するように言うと、走っていった。

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