第34話
この人が本当は激情家なのだと知っていた。時代遅れのフレームの眼鏡も自分を抑えるため。激昂しやすい自分がいるからだ、と付き合い始めたころに笑っていた。彼が語ってくれた全てが真実だったのに、私は彼の心の何一つ受け取っていなかった。白く光る瞳に射すくめられながら、急激にずっと分からなかったパズルのピースが埋まっていく。
たった一つ守りたいものだった。貫きたい思いだった。それさえ守れるのなら、他の何かを捨てても、譲っても、構わなかった。だけどたった一つ。小さな思いを守ろうとするほどに意固地に、頑なになっていった。ひとつを貫くということがそんな簡単にバランスを取って貫けるほど、現実は甘くないし人は優しくはなかった。本当に守ろうとするのなら、私に残されたのは妥協や交渉ではなく、人の心も自分の心すらも踏みつけるだけの悲しい強さだった。
一キロもない帰り道。かっちり結ばれた帯に向かって、どうしたの、何度も口を開きかけ、閉じた。だがその答えに何を返されても自分は彼に満足のいく答えが返せないことに気づいた。いまさら。本当にいまさら気づいた。ただ黙って、彼と手を繋いで一歩遅れて歩いた。
「章」
少し汗ばんだ彼の手に力がこもった。
戻った私の部屋は、殺風景だった。これまでなんとも思わなかったが、初めてこの部屋に住む自分を空しく感じた。自分の部屋なのに下駄も脱げず、玄関で動けなかった。章は電気をつけると、エアコンをつけた。私一人、花火のにおいを捨てきれないまま玄関に立ち尽くす。
「最近、月撮ってただろ。この前の満月の日がきれいでさ。写真撮ってたんだ。そうしたらゆかりが空に向かって手を伸ばしてた。それがすごく綺麗で気づいたらシャッターを押してた。いつものゆかりじゃないみたいに綺麗だった」
恐ろしいほどに平坦で、今日の天気を口にするみたいだった。向けられた背中から彼の表情は見えない。
「そう、とてもきれいだった」
つぶやいた言葉に確信した。彼は気づいたのだ。確かめることなど出来なかった。
「章」
声が震えた。終わりに、しよう。これ以上優しいこの人を傷つけたらいけない。それでも彼をなくしたあと自分がどうなるのかがよぎった。考えるのも怖かった。決定的な言葉を自分から告げることができなかった。
彼が振り返った。彼の黒い瞳が白く見えた。白く光って見えた。行き場のない怒りをただ必死に内に閉じ込めようとしているその様子は自分とダブって見えた。ただもう彼を抱きしめることはできない。きっと彼はそれを許さないだろう。私は彼の次の言葉を待っていた。彼と付き合うことにした日からこんな日が来るかもしれないと覚悟していた。口を開きたい衝動に駆られた。どんな糾弾よりも答える視線に涙腺が緩みそうになるがこらえる。
いわないで。
その言葉が喉まで出ていた。彼の目を見ればきっとそれは耐えられず音になっただろう。私は視線をそらしこらえた。それをいうことがどれだけ危険なことか私には分かっていた。自ら認め、相手に確信を与える行動だ。泣きたい衝動をこらえ、唇をほんのわずか上げる。それからまっすぐに章を見た。
たじろぐはずの相手がまっすぐに見返したことに、彼は驚いていた。だが彼の目には尋常でない光が見えた。
「ああ、そう」
どんな口調なのか分からなかった。ただ文字として彼の言葉は頭に入ってきた。
「うん」
頷くと彼の目がわずかに細くなった。廊下をまっすぐに歩いてきた。明るい室内の灯りを背に彼の表情は見えなかった。
薄暗い玄関に二人、
「別れないから」
それだけだった。愛だの恋だのと甘い感情はそこにはなかった。怒り説明を求めるでも、捨てないでくれとすがるのでもない。まして私を責めるのでもない。すっぱりと私の知らない感情。
「うん」
その選択が何をもたらすのか自分でもよくわからなかった。それでも頷いた。
彼は少し驚いた顔をしたが、すぐにもとの顔に戻った。
「キスして」
章は言った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます