第35話

彼の頬に手を添えた。いつもなら反応があるのに今日はピクリとも動かない。少しだけ、熱い。彼はただまっすぐに私の瞳を捉えていた。

私はじっと彼を見た。何を求めているのか分からない彼に何をするのが正解なのか。このとき初めて本当に松本章という人間と向き合った。感情の一切を捨てたその顔は、童顔とからかった顔ではなかった。熊さんとあだ名し、親しんだ表情でもなかった。


ゆっくりと近づいた。つま先立ちになれば、下駄がカタンと音をたてた。彼の唇は乾いていた。そして気づく。互いに目を開けたままだった。鼻の頭が急に冷たくなってツンとした。


のどの奥から嗚咽があふれ出してくる。それを無理矢理飲み込み、こぼれそうになる激情を必死にやり過ごし涙を流そうとするからだの奔流をなかったことにする。彼の視線が帯に落ちた。帯を結んでくれた優しい手が、帯と浴衣の境目をそっと横に撫でた。それだけ、だった。彼は小さく笑った。よく見ていなければ分からないくらい左頬がぴくりと動いた。


彼は何も言わずこちらに背を向けた。部屋の中へ歩き出す。

気付けば、彼の背中に抱き着いていた。脱ぎ捨てた下駄がドアに当たった音を、彼の背中に耳をあてたまま聞いた。どれだけそうしていたかは分からない。私たちに言葉はなかった。


心臓の音が聞こえた。彼の結んだ帯を自らほどいたのが先か、彼が振りかえったのが先か、覚えてはいない。その夜、私たちは初めて取り繕わぬ姿を見せ合った。何度体を重ねても優しい言葉をかけあっても決して触れることのなかった場所にいた。だがそれはお互いを深く傷つけあう結果にしかならないことに、彼の喉ぼとけに唇を寄せながら気づいた。


優しく私をつなぎとめておいてくれた手はない。それでも彼の手は温かく、私の体をたどった。激情を直接にぶつけない彼の苦しそうな顔に、手を伸ばした。事実を知った彼はどんな感情からなのか、手をはなすことをやめなかった。薄皮一枚で体温を感じる。


目を開ければ、暗い天井のしみが落ちてきそうに広がっていた。

何度と迎えたけだるい朝。カーテン越しにさす朝日に、初めて涙がこぼれた。傷つけてはいけない人だった。きっと私が何より大切にすべき人だったのだと、いつも以上に優しく抱かれて初めて、自分が裏切ってきた人のことを知った。誠実さとか優しさとかそんなものを知るのはきっとそれらを失ったときなのだ。


『仕事へ行く、あとで迎えに来る』


テーブルの上に残された置手紙にそれを知った。

ずきずきする頭のまま桑を取りに自転車をこいだ。車で行ったら事故を起こしそうだった。冷静になれば、かわし方などいくらでもあったことに気づく。それでも何度同じ場面に遭遇しても同じ反応しか出来ないだろう。


「あれ、珍しいじゃない」


朝の畑仕事から変えるところだった鞠子がいた。私の顔を見ると大きくためいきをついた。


「何が悲しくてこんないい朝に辛気臭い顔見なきゃいけないんだか。何溜め込んでるの、話せば楽になるんじゃない」


友人のその言葉に甘えたのは、本当にこのままでは壊れそうだったからだ。壊れるということが具体的にどうなることなのか分からないが、それでもこのままじゃいられなくなるという強迫観念に近い実感はあった。


「まだやってたの」

本当に疲れた、というようなため息だった。

「何回言ってもあんたの頭には届いてないみたいだからはっきりいうけど、不毛だから」


突き放すようなその声に小さく笑う。ただ事実だけを述べるときの彼女の癖。愛情も嫌悪もない。あいつの声が繋ぎとめる鎖なら、この言葉は私の現在位置を確認する標識のようなものだった。鞠子との会話で何を思うかそれで私は自分の位置を測っていた。


「ありがと」

「ありがとってね。あんた、自分が特別だとでも思ってるの?最低だね」


淡々とした声に笑おうとした。知ってるよ、と。だけど唇は震え乾いた声がのどを通った。桑の木についた虫を払いながら鞠子はきゅうりをかじった。まるでこんな話はこれくらいの価値なんだとでもいうように。少し大きめの葉を摘み、また手を伸ばした。目を閉じて向こうに聞こえないように息を整える。


「知ってる」

「…そう。なら別にいうことはないわ。どうせ別れる気なんてないんでしょ。つまんないわ」

「つまんないって」

「所詮他人事よ。大体告白もしないなんて根暗さ、私には理解できないわ」

「それは、兄だから」


鞠子が止まった。初めてのカミングアウトだった。言葉にすればそれはひどく簡単なことだったようにさえ思えた。大きく息をついて鞠子は桑の葉をもいだ。ほい。そういって何枚かを私に渡す。全身に鼓動を感じる。


「あんたって、昔から越えられそうもない山ばかり越えたがるよね・・・・・・そっか」

「鞠子?」

「まあ、あんた生まれる時代間違えたよね」

万葉集のころだったらよかったのにねえ。

「だけどあんたが誰が好きだろうが、逃げようが勝手だけどね、あんたがこれまで逃げ道に使ってたのは感情のある人間なんだからね」

「知ってる」


彼のあんな顔は始めて見た。


「当たり前でしょ。だけど分かってはいないのよ。あんたは」

なぜか辛そうにそういうと鞠子は私を見た。

「ゆかり」

「なに」

「あんたがどんな結果を選んでも報告しなさい」

「え?」

「何を選んでも笑ってやるから」

「笑うの?」

「他にあんたに必要なものなんてないでしょ」


そういうと、さあ朝ごはん朝ごはん、口ずさみながら彼女は坂を下りていった。

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