第33話
赤と青とどっちがいい?
そんなラインが送られてきたのは数日前のこと。何の話かと返せば、花火大会の浴衣のことだった。青と送り、柄は任せると付け足した。
当日、章が持ってきたのは朝顔柄の浴衣だった。濃紺の地に幾何学模様のようにパターン化された白抜きの朝顔の花が散りばめられている。数個だけ紅をさしたように小さな赤い朝顔があった。
「面白いね」
「よかった、気に入ってくれて」
丁寧に浴衣や帯を広げていく。その手つきが指の先まで美しい。
「慣れてるの?」
「父が、和服が好きな人だから。家にあるのも母より父の着物の方が多いかも」
「珍しいね」
手を止めた章はふ、と口元を緩めた。
「そうかな、俺にはふつうだったけど」
何が普通かなんて他人が決めることじゃない。
「ごめん」
「なに? 変なゆかり。じゃ、脱いで」
それとも脱がしてほしい、悪戯っぽく笑うから、素早く浴衣用の肌着を身に着けた。
以前、浴衣の着方など知らないと告げた時に俺ができる、と章はいった。本当に出来るのだと思わなかったが、脱がせるためでも、抱きしめるためでもなく回される手は初めてだった。なんとなく不思議で、眺めていた。膝を突いた彼のつむじにそっと手を当てて、少し癖のある髪をすいた。章は見上げて笑った。くすぐったいよ。
「いこっか」
派手に見えた紺色に朝顔が咲いた柄も、着てみると落ち着いた雰囲気で、章の黒地の浴衣とよく似合った。下駄も悪くない。
花火大会は人ごみとの格闘だった。老いも若きも集う。出店にはちらほらと子供の姿も見えた。
「なに、心配?」
子どもがいれば、保護者もいる。変に絡まれるのは避けたい。私の様子に気づいた章は出店に向かった。ほい、と狐の面を渡された。
「こんなの買うやついないと思っていたけど、こういう時は便利だな」
じっと白く目尻の上がった狐面を眺めていると、章は笑った。右肩にはいつものカメラ。体格のいい彼は、歩くのもさまになっていた。狐面をつけ、手を繋いだ。客引きのだみ声と、子供たちのはしゃぐ声。毒々しいリンゴの赤に、鼻腔をくすぐるベビーカステラの匂い。
ああ、夏だ。
カラン、コロン、と下駄を鳴らす。百メートルほどの露店を抜け、橋を渡る。
川沿いの堤防に行った。花火はもう始まっていた。公園の近く、打ち上げ場所の対岸だけあって、高校生カップルや家族連れが行き交う。堤防を抜けたところに空き地があった。屋根が潰れた廃屋の前に、舗装もされていないそこはさすがに誰もいなかった。ビニルシートを敷いて腰を下ろし見上げる。
「ゆかり」
章に袖を引かれた。章は敷石を枕に空を見上げていた。その体勢にどきりとした。だけど、こっちをみる目にいやらしさはない。彼の瞳の中に、花火が開いた。
「見ろよ、すごいな」
感嘆の声を上げると、カメラを構えた。シャッターを切る彼のよこに寝転がってみた。ちょうど首が痛くなっていたところだった。
青空を見上げたことはあったが、真っ暗な空をこんな風にみたことはなかった。青草の横で虫が跳ねた。
「花火って降ってくるものだったんだね」
寝て見れば、花火はいつもよりも自分に近く迫ってきた。
遠くで見るときとは違い、花火の粒の一つ一つが同心円状に広がって落ちてくる。次々に空で散る花火。夜空から飛び出してくる光。見る位置、角度ひとつでこんなにも違う。イベント用の遠景から撮った写真とは全然違う光景だった。自分の視界すべてに包み込むように向かってくる。自分だけのために花火が上がっているような気にさえなる。掴めそうで、手を伸ばした。
「ああ、すごいな」
章は動き出す。
すでに三脚を用意してアングルを確かめていた。こうなったら彼の世界だ。私は再び空から降ってくる花火を堪能した。
そろそろラストだというとき、ずっと花火を撮っていた章に呼ばれた。
「ゆかり」
「うん?」
「和哉の夏期講習ももうすぐ終わるだろう」
シャッターは花火が上がるたびに切られていく。
「そうだね」
「そうしたら、一緒に暮さないか?」
「え?」
なんと返事をしたらいい。いろいろなことが頭の中を駆け巡った。兄のこと、自分のこと、章のこと。
「そこにたって」
手をひかれ立ち上がった。よほど間抜けな顔をしていたらしい。章は私の頬をそっとなで、考えておいてくれればいいから、そう言って離れた。その感触が優しすぎてざわついた。
「人は撮らないんじゃなかったの」
「試しだって」
軽くいって彼はファインダーをのぞいた。好きにしてといわれたから、そのまま花火を見ていた。水色の花火が咲く。川向こうで親子の声がした。一回も彼はシャッターを切らない。ファインダー越しの視線は感じるのに。焦れたような熱が溜まる。カメラを見ても、彼は見えない。
大きな花火が上がった。風にのって舞い落ちてくる。素人にだって分かるシャッターチャンスだった。
「どうしたの、撮らな・・・・・・」
振り返って固まった。ファインダーを外した彼がいた。
彼は何も言わなかった。何も言わず私を見ていた。睨むのでも、見つめるのでもなく、ただ感情の読めない白い光を宿した黒い瞳が私を見ていた。カメラを下ろした彼の頬をゆっくりと涙がつたった。世界から音が消えた。何かを言わなければ、そう思うのに行き場のない怒りと悲しみを内包し抑え続ける彼の目に何もいえなかった。
ひときわ大きな音が響いた。ばちばちとはぜる音がして大きな柳型の花火が散っていく。
「ご」
めん、と続く言葉は彼によって止まった。なぜ謝ったのかは分からない。一歩で距離を詰められ抱きすくめられた。彼のカメラが落ちた。
「カ」
メラ、続く言葉は彼によって止まった。ぶつかった前歯から脳天に衝撃が響いた。
たまやー歓声と拍手が遠いところで響いていた。彼の肩越しに割れたレンズを見た。涙は出なかった。骨がきしむくらい抱きしめられたあと、彼はようやく私を放した。
「章?」
「かえろっか」
彼はいつものように柔らかく笑った。私は始めて泣いた。普通すぎて怖かった。そしてようやく何にどう彼が傷ついたのか、何を彼が考えたのか分からない。それでも彼のお気に入りのレンズが割れているのを見て、自分がどれほど深く彼を傷つけたのかを知った。噛み付くみたいにされたキスは、涙と血の味がした。
繋いだ手と割れたレンズのカメラ。アスファルトをたたく下駄の音。余韻の残る場を後にした。
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