第29話
「ここって、迷路みたいに入り組んでるんだな。向こうの駐車場からもこっちに繋がっていて。多分手入れする人達用の通路なんだろうけど」
章の顔は初めて見つけたものに興奮する子どもと同じだった。彼は何も知らない。ほっとした。
「そう」
「行こう。デザート、杏仁豆腐だったよ」
そっと手を差し出された。
庭の灯りに照らされた手のひら。
「ゆかり?」
いつもと変わらない優しい声。手を乗せれば、優しく手を包まれた。
見上げた横顔はいつもと同じ。変わらない。
そっと手を引かれた。自分の中にだけある後ろめたさに、混乱する頭を叱咤し、足を動かす。
「章、今日カメラ持ってきてたの?」
口から出たのはつまらない言葉だった。
「さっき、お義父さんに見たいって言われたからな」
「何か撮ったの?」
「月がきれいだったからな」
見上げれば、確かにきれいな満月だった。橙と不可思議な黄色の模様が気持ち悪いほどくっきり見えるのに、吸い込まれそうに大きくて、周囲の白い雲がぼんやりとして、何かを狂わせる。
ほっとした。いや、無理やり自分をほっとさせた。そうしないと叫びだしそうな自分がいた。
「そう、また見せて」
「ああ、そうだな。できたらな」
そのあとを食事の席をどう過ごしたか、あまり覚えていない。
ただ、玉砂利を踏みしめる音がいやに耳に残った。
和哉を家に送り届けた帰り道、車の中は静かだった。
親にあった感想も、兄嫁になる由美子の感想もなかった。赤信号で、そっと章の顔をうかがうも、いつもと変わらない。ドッ、ドッというエンジン音に自分の鼓動が重なる。
何があったわけでもない。ただ、兄と話しただけ。ただ、章が迎えにきただけ。そう、何もなかった。自分に言い聞かせる。冷静と浮ついた気分で、ふわふわと思考が行ったり来たりを繰り返す。
「どっか寄るか?」
「え?」
お泊りの日、家呑みすることもあるから、いつのころからか定番のセリフ。とっさに返せなかった。
章がいぶかし気にこっちを見た。
「今日は呑むのやめとくか」
「ごめん、運転させて」
「いいよ、別に。酒が好きなわけじゃないから」
当たり前の会話。それがいつにもまして体の奥の何かをざわつかせた。
章の家に着くと、彼はいつものようにコーヒーを淹れてくれた。
「今日はありがとう」
「お義父さんいい人そうだったな」
ようやくでてきた感想に少しばかりほっとする。そして同時に、結婚につながる当たり前の道筋に苦しくなる。
「そう?」
今日のコーヒーは少し甘めだ。定位置のソファを背もたれに床にぺたりと二人並んで座っていた。録画したサッカーの試合を眺め、体温を感じる距離に近づく。あと少し体を傾ければ、腕が触れ合う距離。だけど今日は、彼の肩に頭を寄せる。それができない。不自然に開いた手のひら一つ分の薄い距離。体温も息遣いも感じるのに、身を寄せる、それができない。
章はマグカップをローテーブルに置いた。空気が動いた。
「今度、花火大会にでも行かないか」
「人ごみは嫌いって言ってなかった?」
「そうだけど、今年の花火はすごいみたいだから。それに、たまにはそういうのもいいだろう?浴衣着ていかないか」
肩から肘、手首。絡めるように寄せ合って手を繋いだ。
「浴衣……章も着るの?」
似合いそうだ。
「ああ」
「いいけど、私浴衣着れない」
「俺が着せてやる」
「できるの?」
「母親が着物が好きな人だからな。浴衣くらいならできると思う」
「すごいね」
章は笑った。優しくて、優しくて、優しくて、苦しい。
目を閉じれば、兄と松の木と月が光った。
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