第28話

天気のよい日曜日の夜。昔馴染みの中華料理店。

中華の円卓を囲む家族。父、母、私、章、和哉、兄、由美子。兄と章の間に挟まれた和哉はもくもくと運ばれてくる料理に手を伸ばす。章とその弟、その横の兄。自分で決めたことなのに、少し尻込みした自分がいた。



「悪かったな」

「うん?」

「いや、彼。結果的に生贄にした感じが」


母が席を外したのを見計らって兄は言った。母対策と見込んだ章が今では父の隣、黙って酒を飲み続ける父の相手をさせられていた。さして仲などよくない父と私だが、それでも娘であるということは変わらないらしい。父にとっては、兄嫁などより、降ってわいた私の結婚相手のほうがショックが大きかったらしい。


時々なにごとかつぶやいて、そのたび章が「あの」「その」「それはですね」と口ごもる。代名詞だらけの二人の会話は傍から聞いている分にはおかしいが、章には災難以外のなにものでもないだろう。それでも、父が杯を飲み干すその瞬間に困ったようにこちらに視線を向けながらそれでも笑うから、こちらも笑うしかない。

そんな私たちの様子を、エビチリの向こうから和哉が見てくるたびに、心臓が痛む。


「愛されているね、ゆかり」


章を見ながら、生贄にしたみたいでごめんねと由美子は笑った。大学時代のはつらつとした彼女の面影がよぎり、落ち着いた今の彼女は兄の影響なのだと知る。彼女の細い薬指にあるシンプルな指輪。色目を抑えたルージュ。愛されている女の顔。


「そっちのほうが、そんな顔してるけど」


由美子はふふふと笑った。

幸せな人間に幸せを指摘されることほどやる瀬ないことはない。行き場のない思いに席を立った。


「どうした?」

「ちょっと酔ったみたい。外の風にあたってくる」

兄にそれだけ告げるとその場を後にした。エビチリをくわえたままの和哉の上目遣いの視線と目があった。


月がきれいな夜だった。昼間のじめっとした暑さを微かに残しながら、夜の涼しい風が頬を撫でた。裏庭へと続く飛石を一つ、また一つ、ゆっくりと渡った。裏庭とは思えぬ大きな庭には昔と同じ、大きな庭石が一つ。その近くには、昔と少し形を変えた松の木があった。その下に石造りのカエルの置物。多少角が落ちてはいたが変わらずあった。小さなころは登って遊んだ気がするが、今は腰ほどまでしかない。


「小さくなったな」


なめらかなカエルの頭をなでると背中に腰かけた。カエルにしては長く太すぎる首に両腕を回し抱きついた。石の冷たさがほてった頬に心地よい。板塀の隙間から、章たちのいる部屋の灯りがうっすら見えた。


「懐かしいな。おんぶガエルか」

心臓が跳ねた。

「どうしたの?こんなところに」

平静を装いながら、顔だけを兄の方へ向けた。今度は右頬がひんやりする。

「そろそろデザートだからな。おまえ、杏仁豆腐食べられないと拗ねるだろう」


いったいそれはいつの話だろう。もう、私は大人なのに。それでもにんまりしてしまう。


「章は?」

「親父が章くん放そうとしなくてな。なんだかんだ言って気に入ったらしい。よかったな。それに由美子を夜にこん

な暗いところ歩かせたら危ないだろう」


そこに由美子を入れる必要性なんてないのに。


「そう。母さんは?」

「どうだろうな。今日のところは特に何も言っていなかったが」


結婚式は家同士のものだの、住むところはどうするのかなど言っていたが、兄にとってはそんなものは物の数に入らないらしい。


「そろそろ行くぞ。それともまだ俺がおんぶガエルしないと帰れないのか?」


小さい頃はこのカエルが大好きで来るたびにおんぶガエルと称して長いこと乗っていた。しまいには帰りたくないとごねる始末で、そのたびに兄が「おんぶガエルしてやる」といっておんぶしてもらい、おんぶガエルごっこをして帰ったものだった。

体を起こし、立ち上がる。久しぶりのヒールが玉砂利に埋もれた。揺らいだ体を腕一本で引っ張ると兄はまじまじと私を見た。

触れられた部分が熱い、気がした。見られている部分から焦げる、気がした。


「そんなもの履く年になったんだな」


夜風が急に冷たく感じた。

行くぞ、兄は背を向け歩いて行った。大きな飛石を軽快にわたっていく兄の後姿。手を伸ばせば届きそうだった。曲がり角で兄が振り返った。


「おい」

「すぐ行く、先、行ってて」


誤解なんてしようもないほどの優しさだ。そんなものに勝手に心が跳ねて、勝手に裏切られたような気になって、馬鹿だって分かっていた。

星の少ない夜。松の木のてっぺんに月がささっていた。月に向かって手を伸ばす。ギュッと握りしめる。

掴めるはずなんてなかった。



「ゆかり」

後ろからかけられた声に、体が震えた。振り返らなくとも分かる。

「どうして、ここに?」

笑うのだ、自分。

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