第13話
駅にほど近いカフェに彼はいた。ランチも終わりに近づき、店内には私たちともうひと組の客がいるだけだった。アイスコーヒーを二つ頼んで席に着く。
高校三年だという章の弟は和哉といった。几帳面な数字の並ぶノートを鞄の中に入れ、こっちをを見た。
人をまっすぐに見ることにまだ何ら臆することを知らない。そんな視線は嫌いだ。よほど幸せに育ったのだろうと私は悩みのなさそうな能天気な顔に、心のうちで思いつく限りの嘲りの言葉を浴びせかけた。
どうも落ち着かない。
「ふうん、兄貴趣味悪くなった?」
「おい」
和哉は音をたてて残りのアイスティーをすすると、残った氷を口に入れ噛み始めた。たしなめられてもなんら悪びれるところなどない。むしろ章の眼鏡を取ってちゃんと度が入っているのか確かめている。うわっと章のきつい眼鏡を自分の目からはずすと彼は大真面目に言った。
「目は悪くなってないんだ」
「なかなか面白い子供ね」
私がそういうと和哉はあからさまに不機嫌な顔をした。面白いに含まれた悪意に気づかぬほど馬鹿でもないらしい。自己紹介もしないうちにそんな失礼なことをいうやつに遠慮など必要ない。
「はじめまして。高井ゆかりです」
差し出した手をしばらく眺めていたが彼は私の手を握った。なるほど分別はあるらしいと思っていると、その手に男の力でぎゅっと圧力が加わる。何食わぬ顔でよろしく、などとほざいている。章は自分の弟と私がひそかに手を赤くして戦っているなどと知らず、ちょっとトイレと席を立った。残された私たちに残されたのはじんわりとした手の痛みと、沈黙だった。
「ガキ」
「ブス」
小さくつぶやいたら答えがあった。
「ブラコン」
「……」
彼はさすっていた手を止めまっすぐに視線を上げた。大きな黒い瞳に刺され私は一瞬息をするのを忘れた。
デジャヴだ。彼に刺すはずだった言葉は反面鏡に照らされ私の心を暴きだしていた。ごめん、と謝ろうとしたがそれはすべきではないと悟った。右手をひらひらとあげてみせ、相手の右手を指す。
「馬鹿力ね」
少しおどけて言えば、彼の視線はまたただ兄貴の毛色の変った彼女を見る目へと変った。
「女のくせにな」
視線をずらしてくれた彼に心のうちで息を吐きながら、明るく振舞った。
「そっちこそ、顔に似合わず」
章は戻ってくると笑った。
「あれ、仲良くなったのか」
まぶしさに二人で一瞬見とれた。その一瞬で章は席についた。
「まさか」
和哉は荷物をまとめると席を立った。私の顔と章を交互に見比べ、ひらひらと手を振った。
「やっぱり兄貴女の趣味悪すぎ。こいつさっきの握手で俺の手真っ赤だぜ」
「おい、どこ行く」
「帰るよ。夏期講習の申し込みしに来ただけだし」
「家に来るんじゃな――」
「あのさ、兄貴。俺だっていつまでもガキじゃないの。デートの邪魔とかしたくないわけ」
ごちそうさま。五百円玉一つを残して出て行った。
「ごめんな。悪いやつじゃないんだけど、受験でちょっとぴりぴりしているのかも」
弟のフォローをした章は年の離れた弟を、かわいがりながらももてあます兄の顔だった。どう見たって、ナイーブな受験生になど見えなかったが。
気にしていないと笑って見せると、黙って汗をかいたグラスを持ち上げた。
「ああ、あれだ」
「うん?」
「毛並みはいいのに神経質な犬。なんだっけ」
喉を苦味が通っていく。手の痛みが消えていくと共に弟くんの印象がぼんやりと浮かぶ。色が白くて、
「あの、あれ。確か毛の長いヤツ。映像はわかるのにでてこない」
「ああ、だめだ。でてこない。それにしてもゆかりにはあいつが血統書づきに見えるわけ。俺からすると野良だけど」
「なあに? 自分は熊さんなのに弟が血統書づきはくやしいの?」
章は不意打ちをくらったみたいに目を丸くした。あのなあ、と言いながらアイスコーヒーを飲み干した。
「やっぱ最後は水っぽいな、行くか」
「そりゃそうでしょ」
私はグラス三分の一、コーヒーを残して席をたった。
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