第10話
まったくもってその通りだ。
「それにしてもなんで先生まで育てることになったの?」
桑の葉をとるために、一歩踏み出す。キリギリスが飛び出した。
「言われたのよ」
「言われた?」
「蚕なんて毛虫かまうのもいやだっていう女の子がさ。先生もやるんでしょ、って」
「何?それで、馬鹿正直に一緒に家で育てるって」
らしくない、と鞠子は笑いだした。
「いやあ、先生してるんだねえ。都会で大企業に勤めるかと思ってたわ」
「別に私だってやるつもりなかったわよ。学校にいるときだけ、一緒に観察してやればいいかなって」
「それが何で」
ぴくり。頬が引きつった。思い出すだに腹が立つ。
「あの、ぎょろ目。職員室戻ったらいうのよ。『熱心でうれしい限りです。そういうことなら協力します』って」
お互いの愚痴にもつきあっている仲だ。ぎょろ目だけで話は通じる。
「それで新たに蚕種をもらったと」
「それも五十匹。私が断ろうとしたらあの男なんていったと思う。お代は要りませんて」
「だけどそんなの、どうとだってごまかせるでしょ」
「教室帰ったら、一匹種からかえってて、それを皆が囲んで眺めてるわけよ。それ見てたら仕方ないか、ってね」
「なに、ほだされちゃったわけだ」
一枚ずつ葉っぱを取っていた私にじれたのか、鞠子は腰のカマで細い枝を二振り切り落とした。
「違うわよ。ただなんか子供たちの目で、先生の観察日記も見せてねとか言われるとさ」
「一緒じゃない」
こんなことになるのならあんな話をするのではなかった。蚕に少しでも興味を持たせようと、蚕の繭を作るときにそれを利用してうちわにできることや、色つき繭を作れることを話したせいだ。
「それで、すぐにいるわけ?」
「いや、まだ私のは種だから。色も黒くなってきたしもうすぐ孵るとは思うけど」
「そう。じゃ勝手に取っていって。農薬とかこの辺は使ってないからその心配はないと思うし。ただ車で取りに来る
なら気をつけてよね、狭い道だから。」
確かに軽トラ一台通れるほどの道だ。対向車があったら私の運転技術では非常にスリリングだ。左側は岩肌で、右側はガードレールのない切り立った崖のようになっている。
「気をつける。ありがとう」
「別に。で、どうなったの彼とは」
彼女は桑の木と光の加減で悪戦苦闘する章に視線をやった。かなり距離がある。声は届かない。
「結婚するって」
鞠子は私の片思いも知っている。ただその相手は伝えていなかった。それだけは誰にも言ったことがない。
少しだけ目を細めると、あ、そうと踵を返し、大きなエンジン音を立てながら、軽トラは去っていった。
涼やかな風に、小川の音。しばらくの間、夢中でシャッターを切る背中を眺めていた。
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