第9話

舗装もしていない林道の中腹に、一台の軽トラが止まっていた。木々の影になり薄暗い道路、車を下りれば半袖の腕をひんやりとした風が撫でていった。杉の木に交じっていくつもの広葉樹が道なりに植わっている。水の流れる音に、道路の下をのぞけば、サワガニがいそうな小川。近くの畑の蒸すような緑のにおいが鼻を満たす。懐かしい夏だ。

いいとこだな、と章が言うのと、軽トラから勢いよく人が下りてくるのは同時だった。


「遅いわよ、ゆかり」

「ごめんなさい」


下りてきたのはさびかけた軽トラなんて似合わない美人だ。川岸鞠子。この辺りでは古くから続く名家の娘であるが、そんなことを歯牙にもかけない彼女とは高校のころからの付き合いだ。

小学校のころには敷地内をトラクター乗り回していたという彼女、今でも暇さえあれば仕事の合間に農家を手伝い、自分の山の管理をしている。一つ上の先輩だ。


「それで、そっちは」

「あ、はじめまして。松原章といいます」


鞠子はふうん、と章をぶしつけに眺めた後、私に視線をよこした。


「まったく。一応仕事なんでしょ。男連れってどうなのよ」

「これは」


鞠子は面倒くさいとでも言うように章の抗弁をぺしっと右手を払うことで止めた。章の鷹揚とした和ませる雰囲気に飲まれないなんて、さすが高嶺の花だっただけある。妙なところで感心していると、章が隣で落ち着かない。どうやら仕事相手との関係を悪くさせたと思ったらしい。気分転換に付き合うつもりが、いきなり初対面の居丈高美女はのんびり屋の章にはハードルが高かったようだ。そういえば、説明もしていなかったと、思う。


「章。気にしなくていいから。彼女は川岸鞠子、一応私の高校の先輩だから」

「へ?」

「一応、友達なの」

「一応?」

「何ぼうっと突っ立ってるの。桑が欲しいんでしょ。ついてきなさいよ」


険のある視線に軽く肩をすくめると、歩き出した。

指さされた奥には、クヌギの木の隣に大きな木があった。大木だった。養蚕のために低くなるよう揃えられたものではない。好き勝手に延びることを許された桑の木は、図鑑で見ていた桑とはまったく違った。神聖なものにさえみえた。


「すごい」

「桑の実なるしね、私にとっても結構思い入れあるのよあれは」


確かに、林道周りは通るためだけに刈られた桑と比べれば、その手の掛けられ方は一目瞭然だった。鬱蒼としたほの暗い山間に、立つ一本の桑。なんの柵も、立て札もなくても、彼女にどれだけ愛されているのかは分かった。

見とれた。章はそそくさとカメラを構えて撮りだした。


「入っても?」


鞠子が頷けば、膝上まである下草をかき分け桑の木へ近づいて行った。短パンなのになんの躊躇いもない。カメラを持っているときだけは、何かにとりつかれているのかもしれない。ファインダーを覗いている彼はバカだけど、セクシーなのだ。桑の木を見上げ、何回かシャッターを切ると、すぐに戻ってきた。そのまま林道を下がり、振り返る。また下り振り返る。どうやら遠景ですべてを収めようとしているようだった。


「あれが、彼?」


鞠子は私の恋を知っている。だけど章に会わせたのは初めてだ。


「そう」


どうして会わせようと思ったのかわからない。兄の結婚のせいかと聞かれると違う気がする。本屋の駐車場が暑かったから。めでたいなと言われたから。理由はもう思い出せない。


「そ、じゃこっち」


鞠子は林道を上っていく。


「え、あれじゃないの?」

「桑ならあっちもあれもうちの木だけど……」


後に続く。

小川の流れている山肌から突き出すようにその桑の木はあった。


「小さい」


細い枝だが、なっている葉は大きい。でも、さっきの桑の木とすれば、これはなんだか違う。雑草が生えかけましたというような、そう、木という感じがまるでしないのだ。根元から大きな幹が一本あるのを木とするなら、これは根元で幾本にも枝分かれし、細い枝にそれそぞれ葉がある。そんな心のうちを読んだのか、鞠子はしたり顔で笑った。


「あんたが取りに来るのなら道から採れる方がいいでしょ」

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