第8話

「へえ、おめでたいじゃないか。何をそんな憂鬱そうなんだ?あれ、鍵どこやった?」


章はあっさりと流すと、ばたばたとポケットたたいて、車のキーを探した。

車の前で立ち尽くす。解凍された体はじわじわと焼かれていく。太陽の回りが白い。

隣の田んぼにカエルがいた。

携帯が鳴った。


「左の胸ポケット。憂鬱?」

『先生、先生。事件や事件』


携帯の向こうも大騒ぎだった。


「何ですか」


事故にでもあったのか。休みの日に聞く教え子の声に神経がピンと張った。


『ゴマが糸くずになった』

「えっと」

「だから、ゴマが糸くずになったんやって」


よくわからない。話の流れから蚕に関することらしい。


『もしもし、すみません、隼人が電話するってきかなくて。いえ、あずかってきた蚕の卵なんですけどね』


隼人の母はおっとりと謝った。種っていうんやぞ、と隼人の声が聞こえた。

種が孵化した感動をひとしきり聞く。ようやく電話を終えると、章は車の鍵を持ったまま嬉しそうに私を眺めていた。


「なに?」

「いや、別に愛されてるな、て」

「は」


意味不明だ。同い年だがときどき彼の行動は私の理解を外れる。怪訝な顔の私の頭をくしゃっとなでると車へと促された。すでに車の中は冷えていた。


「それで、何があったんだ」

「昨日から蚕の飼育を授業で始めたの。今日明日と休みだから蚕の卵を子供が持って帰ったの」

「それが孵ったのか」


声が大きかったから聞こえていたのだろう。


「それで、ゆかりの方は?」


話が戻った。


「別に、何も」

「何もってことはないだろう。教頭と喧嘩したって言ったときと同じ顔してるぞ」


意識をそらしたくて後部座席を見た。フラットにされたそこには三脚とカメラを入れたジュラルミンケースがある。写真が趣味だという章の撮影に付き合うのがお決まりのデートだった。


「相手が嫌なやつなのか?それともなんか問題あり、とか」


すっと車が速度を落とした。信号が赤だった。


「話たくないって言うなら聞かないけど」

「別にそんな大したことじゃない」

「本当か。ただ気になることがあるときは目が輝いてるのに、嫌なことのときは目が細くなってるんだぞ。きづいてないのか」


後ろを見たままだった私の頬に一回りは大きな手が私の目元をそっとなでた。聞いてやるからいってみろというその仕草で、自分がこれ以上ないほど仏頂面をしていたことに気づく。


「青」


けやきの緑が続く通り、章は視線を前に戻し、アクセルを踏んだ。しばらく外のセミの声と静かなエンジンの音が続いた。


一本、二本、三本。けやきを十本数えて、交差点を曲がった。


「結婚式だとご祝儀包むでしょ?それがねえ」


男の人の手の感覚が残る頬を押さえ、私は嘘をつく。

金欠なのよ、と大げさにため息をついてみせると、章は心配して損をしたとばかりに軽く私の頭をはたいた。それくらいのことはこちらを見なくてもできるらしい。あまり褒められたことでもないが。


「実のお兄さんだろ。祝ってやれよ」

「そう、なんだよね」


私は章に気づかれないように今度は小さく息をついた。それが大問題なのだ、とは一生言わない。ふと漏れそうになったため息を飲み込む。


「それで?どこ行くの?」

「ああ、いや、そう聞かれると困るんだけどな」


どこかに撮影しに行くのかと思ったら違うらしい。車内の沈黙が窮屈で別のことを考える。


「それなら、ちょっと行きたいとこがあるの」

「珍しいな、いいぞ」


章の声が弾んだ。

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