わたしのたいせつなもの

仔月

わたしのたいせつなもの


街灯のほのかな明かりが辺りを照らしている。今は何時なのだろうか……少なくとも、周囲に人影は見当たらない。恐らく、深夜なのだろう。意識が朦朧とする。身体の奥が灼けるように熱い。そう、わたしは飢えている。今、この瞬間も、柔らかな肌に牙をつきたて、血をすすり、甘美な喜びに身を浸したいという衝動に駆られそうになる。瞬間、街路に鮮血が飛び散り、手首に鋭い痛みが走る。突き立てた爪は深く食い込んでいた。マズイ。衝動を抑えることができなくなってきている。このままでは、誰かに出くわしたとき、衝動のおもむくまま、襲いかねない。朦朧とする意識のなか、わたしは進む。誰もいない道を。


どれぐらい進んだのだろうか。気が付くと、わたしはボロボロの建物のまえに辿り着いていた。門前には、「畠野(はたの)製作所」という看板がかかげられている。だが、その文字もかすんでおり、かなりの年月が経っていることが伺える。ここは廃工場なのだろうか……?わずかに安堵する。ここに身を隠せば。飢えを満たすことはできずとも、誰かに襲いかかることはせずにすむかもしれない。そうして、わたしは廃工場へと足を踏み入れる。


パキッ……パキッ、硝子の割れる音が不規則に響く。廊下には、窓ガラスと思しきものが散乱しており、壁面には、いくつもの落書きがなされていた。どうやら、廃工場となったのち、ここに出入りしていたものがいるらしい。恐らく、アウトローだろう……今も、彼らが出入りしているなら、ここに身を隠すことはできないかもしれない。誰が相手であろうと、問答無用に襲い掛かることをしたくない。そうしてしまっては、わたしは本当に人間ではなくなってしまう。そう思い、踵をかえそうとした。


そのとき、パキッ、硝子の音だ。


「……だれ……?」


暗闇から、小さな声が投げかけられる。マズイ。すでに、先客がいただなんて。一刻も早く、ここを立ち去らなくては……だが、思いとは裏腹に、身体がいうことをきいてくれない。それもそうだ。なにせ、吸血鬼にされてしまってから、何も口にしていないのだから。


足音が近づいていくる。やがて、暗闇から、声の主が姿を現した。小さな少女、年齢は……小学生ぐらいだろうか…?ふわふわの黒いドレスを身に纏い、水晶のように澄んだ瞳を向けてくる……わたしよりも、吸血鬼らしい。もしかしたら、同族かも……甘い考えに逃げ込みたくなる。刹那、身体を灼きつくすほどの衝動が沸き上がる。吸血衝動。マズイ。彼女は人間だ……早く、ここから立ち去るように言わなくては……


「逃げて……お願い。もう抑えがきかなくなってきている」


掠れた声をなげかける。だが、少女が歩みをやめることはない。気が付いたら、少女は目のまえにいた。柔らかな肌、ぷるぷるの唇、くりくりの瞳。吸いたい、彼女を滅茶苦茶にしてしまいたい。昏い欲望に身を委ねそうになる。


「ねえ、おねえさん。くるしいの?」


もはや、返事をすることもかなわない。


「それなら、わたしのうちにおいでよ。だいじょうぶ、わたしもひとりだから」


少女は微笑む。そこからのことは覚えていない。ただ、綺麗だなと思った。




瞼を開く。ふかふかとしたものに包まれている。これは布団……ここはどこだろう?


「おはよう、おねえさん。きがついた?」


少女の声がきこえる。そちらを見やると、そこにはさきほどの彼女の姿があった。椅子にちょこんと座り。こちらをじっと見ている


「ここは……?」

「わたしのいえ。といっても、いるのはわたしだけ。しつじの『きよまさ』がおねえさんをはこんできてくれたの。あ、いまは『きよまさ』はいないわ。わたしがよぶときてくれるの」


どうやら、わたしは意識を失ってしまったらしい。あのときの衝動も嘘のように引いていて……背筋が寒くなる。まさか……指先に口内の牙が触れる。そして、恐る恐る、指先を取り出す。が、そこには何もついてなかった。思わず、安堵の息を漏らす。どうやら、意識を失っているあいだに吸血してしまったなんてことにはならなかったようだ。


「だいじょうぶ、あんしんして。おねえさんはぐっすりねむっていたから」


こちらを見透かすように、少女が微笑みかけてくる。


「あなたは……?」

「わたし、わたしのなまえはパトリシア。よろしく。おねえさん」

「わたしは……」


躊躇してしまう。もはや、わたしは人間ではない。吸血鬼だ。それでも、わたしは人間でありたい……だから


「わたしは立花。小倉立花(おぐらりっか)。よろしく。パトリシア」


「ところで、どうして、おねえさんはあんなところにいたの?」

「それを言うなら、パトリシアだって……」

「もう、しつもんにしつもんでかえしちゃだめなんだよ!」

「分かった。言う。でも、笑わないでね」


そうして、わたしは語る。忌まわしき過去を。


あの日、文化祭の準備が長引いてしまい、学校を出るのが遅れてしまった。気付けば、時刻は20時をまわっていた。そう、わたしは焦っていたのだ。別段、わたしの家が厳しいというわけではないと思う。それでも、こんな時間に帰ってきたら、何を言われるかが分からない。自然と、足が早まる。そうして、わたしは近道することを決意した。人通りの少ない裏通りを抜けて……今、思えば、それが失敗だった。わたしは、無我夢中で足を動かした。乱れる息をおさえ、裏通りをかけぬけた。そのとき、前方に奇妙な人影があることに気付く。それは、大男。瞳には赤い光が宿っており、こちらを舐るように眺めている。今ならば、分かる。あれは「餌」を見る目だったのだと。それが、人間としてのわたしの最後の記憶だった。目が覚めると、わたしは吸血鬼にされていた。理屈ではない。感覚でそれを理解してしまったのだ。今の自分は何なのか。何ができるのかを。そして、新しい身体は血を求めていた。当然だ、吸血鬼なのだから。けれど、わたしは血を吸いたくなかった。わたしを吸血鬼にしたものと同じになりたくなかった。だから、必死に抵抗した。身を灼きつくすほどの衝動に。そうして、あの廃工場に迷い込み、あなたと出会った。


息をつく。我ながら、荒唐無稽な話だと思う。まさか、吸血鬼が実在するだなんて……


「そっかー、おねえさんはきゅうけつきさんなんだね。じゃあ、わたしのちをあげるよ」


理解が追いつかない。彼女は話を聞いていたのだろうか。いや、無理もない。まだ、こんなに幼い子なのだ。きっと、何かの遊びと思っているのだろう。


「駄目だよ~そんなことを言っちゃ、怖い吸血鬼さんに食べられちゃうぞ~」


脅しをかけるように、手をバッと広げる。久しぶりに、人間らしいことをできている。血をもらえなくとも、それだけで心が安らぐ。


「うん。いいよ。だって、そうしないと、おねえちゃん、しんじゃうんでしょ?」


心に冷たいものが広がっていく。そう、そうだ。吸血とは生きていくための術。それをしないのならば、わたしに残された道は死のみだ。けれど、わたしは……


「だいじょうぶ。おねえさんはにんげんでいたいんだよね。むりやりに、ちをすいたくないんだよね。いいよ。わたしがゆるしてあげる」


柔らかな微笑みをたたえ、パトリシアが手を差し伸べてくる。


渡りに船。この手をとらなくては、いずれ、わたしは死んでしまう。死の感覚。先刻の飢餓感が思い起こされる。きっと、死ぬときにはあれ以上の苦しみを味わうのだろう。身体が震える。思わず、彼女の手をとりそうになる。触れるか触れないかの距離。わずかな倫理がわたしを躊躇させる。


「ふふっ、おねえさんはつよいんだね。じゃあ、こうしよう。わたしとおともだちになりましょう。わたし、おともだちがいないの。それに、おともだちはたすけあうものでしょう?」


彼女の優しさがゆっくりと染み込んでいく。指先が震える。そうして、彼女の指先に触れる。恐る恐る、手を握る。柔らかな手。暖かな感触。今にも壊れてしまいそうだ。


「はい!これで、わたしとおねえさんはおともだち。これから、よろしくね!」


こうして、わたしと彼女はおともだちになった。



わたしはパトリシアのもとで暮らすことになった。所謂、居候だ。流石に、ただで居着くのは申し訳がたたず、家事全般を担当することになった。幸いなことに、人間だったとき、そういったことに慣れていたため、難なくこなすことができた。休日、パトリシアの学校がない日には、彼女と一緒に遊んだ。トランプ、お絵かき、読み聞かせ、色々なことをした。そのとき、わたしは自分が吸血鬼だということを忘れていた。それほどに、彼女との日々は幸せだった。だが、どうしようもないほどに、わたしは吸血鬼だった。


身を焦がすほどの衝動が蠢く。狂いそうになる。身体が血を求めている……最近は大丈夫だったのに……分かっていた。いずれ、こうなることは。こうなってしまっては、彼女と一緒にいることはできない。一刻も早く、ここを離れないと。


「りっか、どこへいこうというの?」


後ろを見ると、扉が開いていた。そこにはパトリシアの姿が。背筋に冷たいものが走る。最悪のタイミングだ。


「パトリシア……逃げて……」

「どうしてにげないといけない?わたしとあなたはおともだち、いっしょにたすけあおうってやくそくしたじゃない。それとも、あれはうそだったの?」


そんなことはない。確かに、わたしは彼女の手をとった。そのときの気持ちに偽りはない。だが、吸血衝動のまえでは、そのような気持ちは無力だ。柔らかなほっぺた、小さな手足、ぷにぷにのおなか、あらゆるものが私の情欲を煽る。彼女を滅茶苦茶にしてしまいたくなる。


「いいよ、すって」


衣ずれの音が響く。パトリシアがドレスを脱ぎ、その肌が露出する。誘蛾灯に誘われる蛾のように、わたしはふらふらと歩み寄る。もう、彼女は目前にいる。このままでは本当に吸いかねない。


「だいじょうぶ、しんぱいしなくていいよ。りっかはわたしをきゅうけつきにしない。それだけはたしかなことだもの」


パトリシアの言っていることが理解できない。跪き、彼女の肩に手をかける。柔らかな肌。すべすべで心地よい。くすぐったいからか、パトリシアがわずかに声を漏らす。身体がカッと熱くなる。衝動に任せ、彼女の首に牙を突き立てる。もう、後戻りはできない。


瞬間、心地よいものが広がっていく。それはあまりに甘美だった。もっと吸いたい……彼女の首に牙を突き立てる。さっきよりも深く。それに伴い、身体の感覚が希薄になっていく。廊下には、わたしとパトリシアの影が映し出されていた。それらは溶け合うかのように混ざり合い、一つになっていく。まるで、クリオネの捕食みたいだ。そうか、わたしは、本当の吸血鬼になってしまったんだ。


やがて、甘美な時は終わりをつげる。彼女の首筋から、牙をそっと離す。パトリシアの荒い息が響く。


「ごめんなさい……わたし……」

「だいじょうぶよ……りっか……ほら、わたし、きゅうけつきになっていないでしょ」


彼女の口内を確認する。確かに、牙も生えていない。人間のままだ。


「いったとおりでしょ。あなたがわたしをきゅうけつきにすることはない……ね。」


暖かなものが頬を伝う。気付けば、わたしは涙していた。欲望のまま、彼女の血をすすった。もはや、人間ではなくなってしまった。そう思っていた。パトリシアがわたしを繋ぎとめてくれた。そのことがたまらなく嬉しい。


「だからね。これからもおともだちでいましょう、りっか」


微笑みが向けられる。これからも、彼女の傍に在り続けよう。わたしを人間でいさせてくれる、彼女の傍に。




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