主人公の選んだ道がわかる話

主人公、胡蝶の夢を見る


 久方ぶりに目を覚ます感覚を得て、最初に目に映ったのは――もう二度と目にすることはないだろうと思っていた、懐かしいとさえ感じられる光景だった。



                 ●



 深い睡眠を経たとき特有の、頭の芯が重くなるような錯覚に耐えながら目を開き、視線を周囲に巡らせる。


 そうしてまず目に入ったのは、日に焼けて色がくすんだ白い壁紙の張られた天井で。次に目を引いたものは、ランダム再生で動画を流したまま光っているパソコンのディスプレイだった。


「――――」 


 視界から得られた情報に、感覚が急速に覚醒していくのがわかった。


 だから、自分の体が長年使い込んで身に馴染んだ毛布に包まれていることも理解できたし。

 一定の勢いで響き続ける風音が、快適な温度を作る空調設備のものだということもすぐに認識できた。


 ゆえに、体を包んで離さないいい塩梅になっている布団の中という空間にい続けたい、なんて願望に抗って、掛け布団を跳ね除けるようにして上半身を起こしたのだった。


「…………」


 改めて、この部屋の中を確認するように周囲を見回した。


 そこは、フローリングの床と鉄筋コンクリートの壁、そして一面にのみあるガラス窓に囲まれた六畳一間の空間で。

 就職を機に自分で選んだ、パソコン作業用机などの最低限の家具があるだけの一室だった。


 ……全部夢だった、のか?


 と、そう思った。


 ――そう思いたかった。


 床から立ち上がって部屋を出れば、左にキッチン、右にトイレと風呂場の設けられた通路があった。


 蛇口をひねればそれだけで飲める水や温水が出る洗面台に感動し、清潔な水洗トイレの存在を確認して自分がどれだけ恵まれた環境で生きていたのかを再認識した。


 ――あれが夢だと言うのなら、この感動は、ただ現実と妄想の区別がついていない寝ぼけ頭が勘違いで引き起こした錯覚だろう。


 ……どうだろうな。


 確かめる術は、今の自分にはなかった。


 それでも、現状で確信できることがあるとすれば、それはただひとつのことだけだ。


 ……自身の置かれた状況を確認し、その上で為すべきと定めたことを為す。


 それだけは、ここが夢だろうと、幻だろうと、現実だろうと、変わることのない絶対的なものだ。


 だから、とりあえずは洗面台で顔を洗って身支度を整えようとしたところで――現在の認識上では"かつて"としか言いようのない――聞き覚えのあるアラーム音が聞こえてきた。


「…………」


 出社に備えた身支度をするために必要な時刻を示すその音を聞いて思うのは、ふたつのことだった。


 ひとつは、会社までの道のりってどうだったかなという、おぼろげな記憶を脳内から探り出さなければならないという結構重要な問題点と。


 残るひとつは、単純でいて扱いが難しい、感情の処理に関する問題だった。


 ――これが夢でなければいいのに、という願望と。

 ――これは夢に違いない、という憎悪に近い憤り。


 両者の感情をうまく処理できずに溜まった熱を吐くように、大きくため息を吐いた後で。


 ひとまずは、うるさく鳴り続けているアラームを止めに、部屋の中へと戻ることにした。


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