主人公、面倒事に巻き込まれる 2


 就職をして一人暮らしをするようになってから毎朝意識が覚醒すると同時に思うことは、大抵の場合、今何時だろうという疑問で。

 時刻を確認しないと、なんて考えながら、寝る直前のことを思い出してうんざりするのもセットだった。


 ああ、昨日も昨日で先輩に叱られながら、言い渡されたちっぽけな仕事をようやっとやり切ってから帰宅して、ぱったりと電池が切れたように眠ってしまったんだっけ。今日も平日。まだ今週は半分以上残っている。やだなぁ仕事行きたくないなぁ――


 そんな風に考えるのは、新生活が始まってからはいつものことだった。それでも、そんな弱気をあくびと一緒に噛み殺しながら時刻を確認して、朝食をさっと食べて仕事に行くための支度を開始するわけだ。


 今日もそのつもりだった。

 そうするはずだった。

 しかし今日は、そんないつも通りにはならなかった。


 意識が覚醒してまず感じたのは、布団の柔らかく温かい感触ではなく、ざらざらと肌に刺さるような固い刺激だった。


 次に来たのは青臭い植物の匂いで、部屋にこんな匂いがするようなものを置いた覚えはないぞと驚いて跳ね起きることになり――目の前に展開された光景を見て唖然とした。


 そりゃそうだろう。

 眠って起きたら見慣れた自分の部屋じゃなくてどことも知れない木々に溢れた場所だった、なんて出来事が起これば、そうならないわけがない。


 最初こそ、ああこれはまだ夢を見ているんだなと思ったものだけれど。頬を軽くつねってみれば痛さがあったから、夢ではないのだと理解した。


 ……まぁこの方法って実際はあまり意味がないらしいのだけど。


 少なくとも、頬の痛みで完全に眠気が吹き飛んで目覚めた五感が、これは夢じゃなさそうだという判断を寄越してきたことに違いはなかった。


 にわかには信じがたいことだが、どうやら本当に、自分は全く知らない場所に居るらしい。


 なんだか漫画や小説みたいだなぁなんて考えもちらっと浮かんできたが、そう考えた直後に色々な不安の種が芽吹いて胸の中心がずんと重くなるような錯覚を得た。


 この状況で最初に頭を過ぎったことが、ここが異世界であってもなくても、折角獲得した就職がおじゃんになることは間違いないだろうということに対する落胆だったのは、我が事ながら暢気なものだと思ったけれど。それはさておき。


 次の瞬間には、そんなことを考えている場合じゃないと思考を切り替えた。


 ……現状を確認しよう。


 今、自分の手元には何もない。着の身着のままというやつで、服だけは着ていた。普段着だった。寝る直前に着た覚えなど全くないが、なぜかこの格好だった。それはそれで不思議なことだけれども、それよりも重要なことは着の身着のままであるということだった。


 ……マジかよ。


 その事実を認識した瞬間に、天を仰いで嘆きたくなった。問題だらけだったからだ。


 まず頭に浮かんだのは食料の問題だ。


 荷物が無いということは当然食料や水も無いのだから、このままここに居れば死ぬ以外に道はないだろう。いや、それにしたって綺麗に――楽に死ねるのかも怪しいものだと思う。餓死ならまだ幸いなほうかもしれなかった。


 周囲を見れば見えるのは緑ばかりであり――つまりは森やら林、山の中に居るということなのだ。それはすなわち、ここには獣やらなにやらが居ることを意味している。それらに食われて死ぬということも可能性としては当然のようにあり得る話だった。


 しかも、命に関わる問題はそれだけではない。


 一番厄介でどうしようもない問題は、ここがどこかがわからないということにこそあった。


 現状では自分の居た世界――相談する相手が居るわけじゃないから正しい表現かは知らないが――と同じであるのかそうでないのかすらわからないし。いずれにしたってここが知らない場所であることに変わりは無いのだけれど。


 ……もしここが異世界であるというのならば、状況は最悪だ。


 小説やらなにやらでは当然のように異世界の人間が受け入れられているが、普通に考えれば、そんなことはほぼ絶対に有り得ないとわかるからだ。


 人間というものの在り方が似たようなものであればあるほどに、その可能性は小さくなるとわかってしまうからだ。


 ……人間は、異物を容易く受け入れられるように出来ていない。


 同じ国の過去にタイムスリップしたとしたって言語が全く異なるだろう。明らかに見慣れない人間の行動に垣間見える違いは隠せるものではないだろう。


 人間というものは、そんな違いを見過ごさない。だったらどうするか。


 ……遠ざけるか無くしてしまうのが一番だ。


 なぜなら、違うものは怖いからだ。何をするかわからないという恐怖がそこに芽生えてしまうからだ。


 何をするかわからないのであれば、とりあえず遠ざけておく、あるいは排除しておくことが一番の対策になることは間違いない。


 その手段が殺害であるか否かは、そこに栄える社会の持つ余裕によるだろう。


 まぁその違いを覆すほどの利益が見込めると判断される何かがあれば話は変わってくるのだろうが、生憎とそんなものは持ち合わせていない。


「…………」


 動かなくても死ぬが、動いたって死んでしまう。八方塞とはまさにこのことだと、最早笑いすら浮かんできた。


 同時に、なんで自分がこんな目にあわなければならないんだとも思ったものの、


 ……ぼやいたところで何も始まらないな。


 自分に言い聞かせるようにそう考えてから、ため息と一緒にその思いを吐き出した。


 始まったところでどうなるんだという話でもあったけれども、まぁ何もしないよりは何かしていたほうがきっとマシだと、そう思ったから。


 ……遭難時は動かないほうがいいとは言うがな。


 そりゃあ助けが見込める場合だけの話だと。だから動くしかないのだと、そう判断して、とりあえずこの場から離れることにした。


 当てなどない。どちらに行けば何があるのかもわからない。それに、足場も決して良くは無いから、どれくらい移動し続けられるかもわからない。


 不安ばかりが募る。


 それでも、運が無かったのだと諦めて、無理矢理足を動かし続けるしかなかった。






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