ある青年の異世界順応記

どらぽんず

第一章 主人公が自分の身の程を嫌と言うほど思い知る話

主人公、面倒事に巻き込まれる 1


 自分の力で生きていくことは大変なことなのだ、と認識するようになるタイミングは、人それぞれ違うのだろうと、そう思う。


 なぜなら、そのことを実感する機会を得る時機が、環境によって、つまりは人によって異なるからである。


 いわゆる貧乏な家庭に生まれたならば、生きる糧を得るために、あるいは生活を少しでも豊かなものにするために、努力を強いられることもあるだろうし。そうでなくても、限られた持ち物の中で生活を成り立たせるために頭を回して工夫を凝らすことも多くなることだろう。


 そういう人は、物心がついた頃から生きることの大変さを身近なものとして知っているに違いない。


 一方で、中流――今ではもう死語だろうか――以上の生活をするだけならば問題らしい問題のない家庭となると、少し話が変わってくる。


 中流以上と呼べる稼ぎがあるということは、生活に不自由しない程度に稼げている家庭ということになる。そうであれば、少なくともその子供が労働力として頭数に入ることはないはずだ。


 そしてそうなれば、その子供は自身が社会に出るタイミングで、つまりは社会人として働き出してから一人で生活することの大変さを実感するようになるのではないだろうかと、そう思うわけだ。


 要は自分に肩入れしてくれる誰かからの庇護がどのタイミングで外れるかの問題であって、卵の殻が割れてお外の世界とご対面、となるのがいつなのかはわからない、という話である。


 

 ――ああ、ただ私の場合の話をするならば。


 それは間違いなく、社会人になってからで、これから学んでいくはずだったものだった。


 そこそこ稼いでくれている父と母の間に生まれてぬくぬくと育ち。定型句のお祈り祭りに心を折られそうになりながらも活動を続けた結果として得られた就職先の会社に大学を卒業してから入社したところだった。


 その会社は実家からではとても通えそうにない距離だったから、致し方なしと一人暮らしを始めることになって。

 そこで実際に生活を続けることでどれだけ親に頼って生きていたのかを改めて思い知ることになり、また、会社で先輩社員に自分の不出来を責められることによって自分で金を稼ぐ大変さを実感することになったというわけだ。


 それでも、幸運なことはあったのだ。特に有難かったことは、人間関係も含めて職場環境がそう悪いものではなかったということだっただろう。


 だから、これから色々と大変かもしれないけれど仕事を続けて一人で生きていけるようになりたいと――その社会にいる多くの人と同じように、どこにでもいる一人の人間として生きていけるようになりたいと、そう考えていたわけだった。


 

 しかし人生というやつは、そんなふんわりとした展望なんて消し去るような展開というのが訪れる場合があるらしい。


 私が生きることの大変さを実感したのは、確かに社会人になってからだった。


 ただ、より正確に意味を伝えるために表現を付け足すならば、こうなるだろう。


 私は生きることの大変さを元の世界で社会人になって体験しているところだったが――何の不幸か、別の世界に呼び出されることになってひとりで生きることの困難さと恐ろしさを体験する羽目になったのだ、と。



 ある意味では運の良いどこかの誰かがそうなってしまう話はよく見るが、自分がそうなってしまっては笑えるものではない。


 すべてを台無しにされた上で始まった新生活――その人生においてまず学んだことがあるとすれば、その実感だったに違いなかった。


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