第9話

 それでも、週末になると、とかげの足は自然に店に向かいました。

  

 ひとつには、店がすっかり変わってしまったことが夢の中のことのように思われたから。

 もうひとつには、マスターやバーテンさんのことが気になったから。

 それから、昔、店に来ていたお客さんの誰かが、同じように思って来てくれているかもしれないと、淡い望みを抱いていたから。

 

 でも、来てみると、やはり店は変わってしまったままでした。


 意地になったように、とかげはそれからも店に通いました。

 本当の「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」を知っている人がひとりでも通わなければ、あんなに素敵な店があったことまでが夢のように消えてなくなってしまうような気がしました。


 なるほど、貸し主のおもわく通り、新しくした店には確かに客が増えました。

 時には座りきれず、壁に寄りかかったまま酒を飲んでいる若者の姿も見かけました。

 けれど、昔のように古いジャズを静かに聴きながらグラスを傾けて語っていた客たちは、もういません。

 疲れた体や心に沁み込んできたピアノの音や歌声も、もう流れていません。

 

 代わりに長々と居座っているのは、大きな声で喋る派手な装いの化粧の濃い女たちと、それを目当てに来る男たち。

 時々混じる甲高い笑い声や怒鳴り声の中を、何と歌っているのかも聞き取れないような歌ばかりが、負けないように大きな音でかかっているのでした。


 とかげは何も聞こえないふりをして、黙々とビールを飲みました。


 優しく愛想の良かったバーテンも、なんだか不機嫌に見えました。

 それは客商売ですから、あからさまに顔には出しませんが、無表情で、妙に機械的に休みなく働いては、酒を出したりテーブルを拭いたり、洗う必要のなさそうなきれいなグラスまでもう一度洗い直したりして、時折ひどく沈んで見えるのでした。


 その殺伐とした荒んだ雰囲気の中で、味もわからなくなったビールを流し込みながら、とかげはこう思うようになりました。


 こういう音楽が好きな人もいるんだ。

 こういう場所が必要な人もいるんだ。

 その人たちや歌が悪いわけじゃないんだ。

 そういったものが楽しい時期のある人もいるんだ。

 ああいったもので気を紛らわしたり憂さを晴らしたり、そうしないとやっていられない時期が人生にある人だってたくさんいるんだ。

 それに、そういう人たちだって、ずっとそのままでいるかどうかはわからないんだし…。

 でも、それがよりによって、自分の大好きなこの店で、今から当分の間は続くなんて…。

 そうして、もしかしたら、ずとこのままこの店が、騒がしいだけの場所になってしまうかもしれないなんて……。

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