第8話

 ビール一杯でも、お店の足しになってほしい。

 夕飯の分のお金を使ってしまったから、今夜は腹ペコだけれど、それくらい何でもない。

 とかげはそう思いました。


 けれど、もう一杯のビールが来る前にバタンと大きな音がして、乱暴に表の扉が開きました。


 今度、入ってきたのは、床に突き刺さりそうなハイヒールを履いた女の人と、ブーツをガンガン踏み鳴らしながら歩く男の人でした。

 女の人は長い爪の指先でジュークボックスに器用に硬貨を入れます。

 と、次に流れてきたのは、マシンガンを撃つような凄まじい音でした。


 いいえ、音ではありません。

 それはやはり誰かの声でした。

 とても早口で何かを言っているのですが、早すぎて何を言っているのか聞き取れません。

 これも歌なのでしょうか。

 これを聞き取って、同じように歌える人もいるのでしょうか。


 聞いているうちに、とかげは目が回ってきました。

 まだ口をつけていない二杯目のビールも、廻っているように見えてきました。

 …でも、このまま飲まずに出ちゃ、失礼だ……。


 とかげは必至でグラスをつかむと、泡の立つビールを一息に飲み干しました。

 そして、ポケットからありったけの小銭を出してカウンターに置くと、やっとお辞儀だけして、よろよろと店を出ていきました。


 帰り道、だいぶ歩いてから、とかげは、なんだかちっとも足に力が入らないな、と他人事のように思いました。

 頭の芯がしびれたようになっているのに、はっきりと何かを考えていました。

 

 …違う、違う、違う!

 そう、頭の中で自分の声が言っているのでした。

 あんなの、おいらの知ってる「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」じゃない、 あんなんじゃ駄目だ、あれじゃ駄目だよ、とも、その声は言っていました。


 あんな曲、あの店には似合わない。

 あんなお客さんたちは、あの店にはふさわしくない。


 耳障りなばかりで、頭が痛くなるばかりで、少しも心に響いてこない歌。

 うるさくて、自分のことしか考えていない客たち。

 

 あの店は、そんな店じゃないんだ。

  

 マスターが可哀想だ。

 バーテンさんも可哀想だ。

 「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン」が可哀想だ。

 来なくなったほかのお客さんも、そうしておいらも…。


 あんな歌、いつまでも続かないさ。

 今は流行っているかもしれないけれど、すぐに廃れてしまうさ。

 忘れられてしまうさ。 

 だって、心が本当に望む歌じゃないもの。


 いつか、みんな、そのことに気がつく。

 そうしたら、また、あの店は昔のようになるんじゃないかな。

 今夜、店で、そのことに気づけばよかったな。

 そうしたら、バーテンさんにそれを伝えられたのに。


 ぐるぐる回る怒りと悲しみが次第に遠のいていく中で、とかげはぼんやりと思っていました。


  

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