第8話 誰もいない村

「本当に行くんですか? 」

「当たり前じゃないか」


 エルザは、助走もつけずにフワリと飛び上がると、塀を飛び越えて村の中に侵入する。重力を無視したようなその跳躍で、エルザの金色の髪だけが風になびいたように揺れた。


 すでに日は落ち、辺りは真っ暗だ。松明もなく辺りが見えるのは、獣人の血が混ざっているせいだろう。

 それでも、赤い満月が昇らない夜は白い三日月が空にある為、漆黒の闇夜という訳ではない。ただ、そのあまりに細い月の明かりは、足元を照らすほど明るいこともなく、薄い雲にさえすぐ隠れてしまう。


 シンはエルザほど身軽に……という訳にもいかず、助走をつけて塀を蹴って飛び上がる。片手を塀の上にかけ、一気に身体を持ち上げようとした時、激しい痺れが塀にかけた手を襲った。思わず体勢を崩し、着地というより転がり落ちてしまう。村側に落ちただけでも上出来である。それくらい凄まじい衝撃だったのだ。


「バカか? 塀に手をかける奴があるか。呪術がかかっていると、さっき教えたばかりだろ」

「だって、チクッとするくらいだって……」

「チクッとしたろ? 」


 あれがチクッなら、剣で刺されても笑ってすませそうだ。


「じゃあ、触らなければ問題ないってことですか? 」

「そうだな」


 それさえ知っていれば、誰だって侵入できそうな気がする。

 改良の必要があるんじゃないだろうか?


「また、余計なことを考えているのか? 」


 立ち上がろうとしないシンの顔を覗き込むように、エルザの彫刻のように整った顔が近づいてきて、シンは思わずのけぞってしまう。呪術並みの破壊力のあるその整い過ぎた顔にドギマギしながら、シンは大きく咳払いをし、何でもないふりをして立ち上がる。


「立てるなら早く立てばいいのに」


 ブツブツ文句を言うエルザを放置し、塀を見上げて考える。


「結構な衝撃だったんですよ。まだ手の先が痺れます。でも触らないように越えるには……」


 塀の近くの高い木は伐採されており、木から跳び移ることはできなそうだ。梯子を使えば……、でもこんなに長い梯子は見たことないな。いや、何も梯子じゃなくてもいいのか。切った木をそのまま立て掛けて、それを登ればいい。獣人ならそれくらい運ぶのはなんてことないだろう。実際、ヤコブの雇っている獣人達は、一人で切り出した木をかついでくる。


「いい案は浮かんだか?」

「木を立て掛ければいいのかな」

「そうだな。それよりてっとり早いのは、塀を壊せばいい。獣人は力も半端ないから、このくらいの石の塀なら、鈍器でも振り回せば一発だろ」

「じゃあなんで……」

「そうしないか……だな? 」


 エルザは村の中を歩こうと促した。


 いつもなら、日が落ちてすぐのこの時間は、まだ男達は働いていたし、女達は夕飯の支度をして煙突から煙が立ち上っている筈だった。窓からは松明の明かりが漏れ、暖かい家庭の様子が垣間見られる時間帯でもある。

 しかし、明かりが漏れている家はなく、扉はしっかり錠が下ろされ、窓も板が打ち付けられていた。みな、家の中にいるのだろうが、生活している音さえ聞こえない。子供の騒ぐ声や赤ん坊の泣き声もなく、夕飯の匂いすらしていない。


 まるで廃墟のような村の様子に、村人が全滅してしまったかのように思われて、背筋がうすら寒くなる。さっきまでみな元気で働いていたから、もちろん元気で家の中で息を潜めているだけということはわかってはいるのだが。


「獣人は、赤い満月を浴びると獣化するよな? 」

「はい。そして人間を食らいたいという本能が抑えられなくなる」

「ふむ、確かに本能がより表面化するな。ただし、だからといってむやみやたらと狩りに走る訳じゃない。基本、人間を目の前にしなければ、その血の匂いを嗅がなければ、獣人達だって人間を食らいたくはないんだよ」

「でも……」


 その後の言葉は、でも父親は母親を食らった……だろう。


「たまに人間を狩ることを楽しむ獣人もいるようだが、それは人間の中にだっている。人間を殺すことを娯楽としている変態がな。だが、それは稀だ」

「稀……」

「そりゃ、人間が目の前にいれば襲うだろう。本能だからな。おまえの父は、本能に従っただけだ。楽しんで母を食った訳じゃない。そうならないように、それまでは満月の夜は一緒にいなかったのだろう? 」


 覚えているのは微かだが、そうだったように記憶している。

 獣人だった妹を連れて村に戻る訳にもいかず、熱をだした妹を看病する為に、母とシンは森の中の父の家に残ったのだ。

 赤い満月は三日前に昇っており、まだ白い三日月の筈だった。母は明るい夜空を見て絶句し、父は絶望の雄叫びをあげていた。

 母はシンを抱えると、すぐに走り出した。しかし、あまりに慌てていた為にシンを抱えたまま転んでしまい、シンをかばった為に膝と腕を擦りむいてしまい……。そう、父の前で血を流してしまったのだ。獣化した父の顔つきが変わり、シンの背中から母の腕ごとその鋭い爪で引き裂いた。

 母は動かない腕でシンを抱え、走り、その後は……。


「ゆっくり息を吸え 」


 いつのまにか過呼吸のような症状がでていたようで、荒い息で手足が痺れ、ふらついて思わず膝をついていた。エルザはそんなシンの側にしゃがみ、背中をゆっくりとさすった。

 その手の温かみが、シンの気持ちを安らかにする。


「そうだ、深い呼吸を心がけろ」

「すみません、ちょっと思い出してしまって……」

「フンッ、おまえみたいな境遇の奴は少なくない。いちいち反応するな」


 口ではそう言いながら、エルザの手はずっと優しくシンの背中をさすっている。


「私が言いたかったのは、確かに獣化した獣人は本能に逆らえないかもしれないが、だからって満月の夜に何がなんでも人間を食らう為の行動にでないということだ。限りなく細い糸ではあるが、理性の糸が繋がっており、人間が刺激さえしなければその糸は切れない」

「こうして隠れていれば、わざわざ探してまで狩ったりはしない?」

「そういうことだ。つまり、この程度の塀で十分抑止になる程度のことなんだよ。お互いに注意さえすれば、共存は可能だし、赤い満月がいつ昇るか正確にわかれば、ほんの一日、いや数時間だな、お互いの生活エリアを遮断すればいいだけだ」


 なるほど、確かにそうなのかもしれないが、捕食者と被食者の関係で、その恐怖はなかなか拭えるものではなく、昼間だって獣人と接するのを嫌う人間がほとんどだ。


「今すぐの話しではないさ。いづれな、いづれ……」


 妖精の寿命を持つエルザのいづれとはいつなのか?

 とりあえずは、この村の人達が無事ならばそれでいい。


 酒場の近くまで歩いてきたが、さすがに開いていないし、客もいなかった。


「誰もいませんね」

「いたら自殺志願者だ」

「これだけ静かだと、不気味なくらいです」

「そうか? 」


 店は住まいではないから、誰もいない。故に頑丈に戸締まりされている訳でもなく、エルザがドアを押したら簡単に(鍵は破壊)開いた。


「エルザ、不法侵入です」

「固いこと言うな。喉が渇いたんだ」

「ダメですよ。お店の人いないんですから」


 酒屋の店主は、赤ら顔ででっぷり太って、接客業のせいかいつも笑顔を絶やさない男だった。客が喧嘩していても、店の物を壊されても常に笑顔で、怒ったところを誰も見たことがなかった。店の扉が壊されていても、多分笑顔なんだろうな……とは思うが、誰も出歩く筈のない満月の夜の出来事となれば、怒るといいより恐怖するのではないだろうか?


「もう、しょうがないですね」


 勝手にエールをグラスに注いで飲み始めたエルザを横目に、シンは扉の修理を始める。


 酒呑みと言うと小人ドワーフのイメージが強いのだが、実は妖精エルフも蟒蛇なのである。酒を水のように飲む。

 そして逆に予想外に酒に弱いのは獣人で、まるで猫にマタタビのような症状がでる。エルザは妖精の性質を、シンは獣人の性質を受け継いでいた。


「おまえも飲むか? 」

「結構です」

「つまらん奴だな」


 顔色も変えずに酒を飲むエルザを見ていると、これが今日の一番の目的じゃないか……とさえ思える。

 酔ってベロベロになるところを見たことはないが、飲むのは好きらしい。ただ、村で飲むことはない。酔っぱらいにからまれるのがうっとおしいからと、力加減が甘くなるようで、ちょっと払いのけただけで、村人を十メートル吹っ飛ばしてしまったことがあったとかなかったとか。しかも、その村人を助け起こそうとして腕をつかんだら、拍子で腕の関節を外してしまったらしく……。まあ、折れなくて良かったと言うべきだろう。


「樽、飲みきらないでくださいね」

「ふん、そんなバレるような飲み方をするか。後は、各自のボトルから一杯づつご馳走になるとしよう」


 最初の一杯分の銅貨をカウンターの上に置くと、カウンターの中に入って村人のキープされているボトルを品定めし始める。


「フム、ムライのじいさんには丸薬の貸しがあるから、三杯くらいはいいか。タジには貼り薬の貸しがある。サマトには…」


 どうやら、ここで今までのツケを払ってもらうつもりらしい。


「程々に……。ボク、村をちょっと見てきます」

「ああ。たまに好奇心旺盛なガキが窓からこっそり覗いていることもあるから、見られないようにしろよ」

「ハア……」


 親がそんなことを許すとは思えないが、マントをかぶり、フードを目深にかぶる。


 どの家も窓に板を打ち付け、外を覗ける様子はない。明かりも漏れてないし、人間には漆黒の闇夜だろうから、万が一見られたとしても、誰だか判別することは難しい筈だ。


 サラの家、カムイの家、知り合いの家をチェックしていく。

 皆、ちゃんと隠れているようだ。シンはホッと一息つくと、村の塀から一番近くに建っているサラの家に再度戻ってきた。


 そして、わずかな血の香りを嗅ぎ付けて眉を寄せる。人間の女……若い女は月に一回血の匂いがした。それは甘く頭がクラクラし、酔っ払ったのと似たような症状が出た。その匂いがサラの家からしてきていた。


 家の扉や窓はしっかり塞いでいるのに……。


 見ると、煙突、煙突だけは塞いでいないではないか。そこから家の中の匂いが駄々もれだ。


 明日、みんなに煙突も塞ぐように言わないとですね。


 簡単に、それでいてしっかりと匂いを塞ぐ方法を考える。


 呪術の付与された岩を置けば、獣人は触ることができないし、匂いも封鎖できるのではないだろうか?

 でも岩は重いから、鞣し革……水袋に使う物なら、匂いも通さないし、それに呪術を付与して煙突を覆えばいいか。


 そんなことを考えていると、ふと視線を感じた。

 当たり前のことながら、人間は一人もいる筈がなく……、視線は塀の方からなのか?

 視線を上げると、塀の向こうの木の上にある赤い瞳としっかりと目があった。




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