また三作品をヨム
さて、いつものように始める前に断っておくのですが詩のイベントに小説を出して来たり、一人一作とお願いしたのに詩集でしかも詩集を何作も投稿されている方の作品は僕の裁量で読まないことを宣言しておきます。
では今回はこの作品です。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054891554161
いきなり詩集ですね。詩集 思い出日記から、『わからない』 作・AOAO。
他人の詩を読んで感動した体験を書いています。雰囲気だとか、こう書いた方がいいと思い書いても心がこもっていないから自分の詩は人の心を動かせないのだ。素直な心と素直な思いで書いて見ようという主張ですね。素直な眼で自分を視る事は大事です。またそれを自作を客観的に視ることへつなげていけるなら、なおさらいいでしょう。とはいえ、詩のはじめの一歩みたいな内容ですね。少々、自分の感情を省いて書かれたらより素直に他人も読めるのかな、と思います。
では次はこの作品、多重エントリーされているのでこの一作だけ読みます。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054891647406/episodes/1177354054891647408
好き嫌い・見つめるは過去の音 作・音澤煙管
一から五連が説明的でリズムに乗れない。六連目からの記憶を振り返ることの大切さ、のくだりは気持ち良く読めた。
『耳から入って残ったものは、
瞼の裏で投影されてゆく。
人はそれを思い出と言う、』
この三行目などは無くても良いことを説明している。読者が勝手に読み取ると思える。詩は説明ではないのでもったいないと思った。人は過去を振り返らずにおられないが詩で書かれているように経験とトラウマに二分されて再生されるのかは疑問が残る。その過去から未知の何かを引き出せたとしたら傑作が生まれそうだ。
ではさらに次の作品です。
https://kakuyomu.jp/works/1177354054891652490/episodes/1177354054891652520
かのうせい 作・泉 涼香
人には無限の可能性なんてなく夢幻の可能性しかないという。そんなものを信じてもろくなことになりはしない。それでも頑張れば無限に近づくぐらいはできるよ、という懐かしいJ‐popのようなのりである。さて無限とは限りの無いことだ。確かにそれは在るようで無い。しかし、人間の精神に無限の可能性はないのだろうか。僕は詩や詩情というものが無限の可能性のように思える。だがそれは簡単に頑張れば近づけるものでもないのだが、頑張らなければ感じ取れもしないのだ。もちろん、才能のある人はどうであるのか限りではないけれど。
はい、今日の三作品はこれにて終わりです。メッセージ性の強い作品が多かった、というのが感想です。ではまた。
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