19時間め:ファントム・シーフと研究所の秘密

 森の中を、ジンはなるべく足音を立てずに駆ける。森に幻覚をかけていたのは、ヨシュアだったのか、森には生気が戻っていた。小型モンスターが地面を駆け抜け、木々の間を抜けるたびに、衝撃に驚いた鳥たちが木の上から飛び立って行く。風が強弱をつけて葉を揺らし、ジンや小型モンスターの足跡が地面に模様を刻む。

 正確なところはわからないが、おそらくかなり広範囲に幻覚魔法をかけていたのだろう。倒れもするはずだ。自身の命を削る自殺行為に他ならない。

──そうするしかなかったのか。


 ヨシュアについて調べると約束したその日。ジンは、再び情報屋に足を運んでいた。

 陽の光を浴びた古ぼけた小さな建物は、太陽の存在を拒むようにひっそりとしていて、昨日青年が座っていた店先は影に包まれたまま、静かにジンを飲み込む。ジンは情報屋の店の中を滑るように奥へと進む。店先と奥の部屋を繋ぐドアは朽ちかけていて、押すとギギギと音を立てながら、ジンを迎え入れる。

「1週間後じゃなかったか?」

 奥の部屋は窓がないからか、薄暗いままで、腐りそうなリンゴと食べかけのパンと、無造作に積まれた本がそのままに、老婆はこの前探しあてた椅子に、まるでずっと座っていたかのように同じ姿勢のまま座っていた。部屋中に響き渡るいびきは、老婆の孫である青年のものだろうか。

「今日はあの本についてお話を伺いたく。勝手におじゃましてすみません」

 頭を下げると、ふん、と老婆がほとんど見えていない目をこちらに向けて、鼻を鳴らした。

「その喋り方どうにかならんのかい」

「すみません、つい癖で」

 ニコニコと笑うジンに、老婆は諦めたようにため息を吐くと腰をあげた。

「外へ行こう。あいつのいびきは煩すぎる」

 ヨタヨタとでもいえそうな足取りで、老婆が店先に出る。陽の光の中にいる老婆は、その明るさのせいか先ほどよりもくすんで見える。

「本に何か載っていたのか?」

「知人が」

「そうか……」

 カウンターなのだろう、灰色の煤れた台にジンが本と金貨を三枚を置く。

 先に支払いを提示するのは、この対価で出せる情報が欲しい、ということを示している。

「これ、どこで手に入れたんですか?」

「手に入れたわけではない」

「では、誰から入手したんですか?」

「……わしの倅だ」

 ロクデナシの息子。彼女は昨夜そう言っていた。

 老婆がもう一つの椅子をジンに差し出してくる。座った椅子はぐらついていて、いつでも足が折れそうなほどに不安定だ。

「あいつは、14でうちを出た。カビと貧乏で臭い生活は嫌だと、うちを飛び出したんだ」

 老婆がしわがれた声で、ぽつぽつと昔話を語り始めた。その喋り方は、鋭く放つ弾丸のような、今までの老婆の話し方とは違い、雀に米粒を落としてやるような、繊細で慈しみのある話し方だった。

「14なんてまだまだガキだと思っていた。でも、探してやるほどの子どもでもない。

 すぐ帰ってくるだろう、それまでにうちをデカくしておいてやろうなんて思っていたんだが、あいつは自分で仕事を見つけて、仕事をしながら勉強して、自分で自分の人生を切り拓いたんだ。

 帰ってきたときには驚いたよ。もう10年も経っていたからね。死んだものとしていた、息子が帰ってきたんだ。

 しかも、あいつはなんとか研究所で先生と呼ばれるような仕事をしているっていうじゃないか」

 嬉しかったねえ、という言葉とともに、老婆の口元が一瞬綻ぶ。

 研究所……。生態調査研究所か。

「あいつは3日だけ、うちにいてな。実は息子がいる。今度連れてくる。そんな話をして帰っていったんだ」

 青年のことだろう。それと、本となんの関係があるのか。老婆の話からはまだよくわからない。

 いつもよりも表情豊かだった老婆の顔がまた無表情に戻る。

「その後、すぐだよ。あいつらがきたのさ」

 研究所の人間が、老婆の家に押し入ってきたという。

「本を返せ、と言ってたな。本が何かはわからなかったが、あいつに関係あるのはわかる。抵抗もせずに大人しく探させたんだが……。散々荒らされた後に言われたよ。あいつが研究所の希少本を盗んで売っているってね」

 研究所の本は追跡用の特殊なコードがついているはずだ。確かに、昨日の本にはコードがついていなかったが、記憶違いだろうか。

 その考えが老婆にもあったのか、老婆は一つ頷いて続けた。

「おかしな話だろう? 売っているなら足がついてるはずさ。うちを探すまでもない。あいつらは言いたいことだけ喚いていたな。バレて逃げたあいつはうちに本を隠した、と。こんなわかりやすい場所に売れないものを隠す馬鹿がどこにいるんだか。まだ逃走していると言われたが、本もあいつの行き先もわからない。本の賠償請求をされたよ」

 聞いた額は相当のものだった。

「その本がこれだと?」

「あいつらが帰った後に郵送されてきたんだ」

「今になってなんで売ろうと思ったんですか?」

 老婆がカウンターに置いた本の裏表紙をめくる。

「あいつの遺言だからだよ」

 ──来るべきときがきたら、これを売ってくれ。ありがとう。またいつか。

 木で削ったような跡でそう書かれていた。

 老婆がゆっくりとその跡をなでる。きっと、いつもそうしていたのだろう。まるで小さい子を慈しむように、皺が刻まれた手が動く。

「そして、もう一つ、この本が届いてから1年後くらいだろうか。手紙が届いたんだ」

 老婆がポケットから1枚の手紙を差し出す。いつも時間があるときには読んでいたのだろうか。手紙は薄茶けて、ところどころにシミがついていた。


 これを読むころに、俺はこの世にはいないと思う。自分の手でジャンをなんとかしてやりたかったが、難しそうだ。母さん、こんな親不孝な息子で申し訳ないが、ジャンをよろしく頼む。

 研究所の奴らは、狂っている。モンスターに襲われた人間を集めて、検体にしているんだ。襲われた人間は人間ではないんだと、言っていた。ジャンもその一人だ。ジャンは昔、ドラゴンに襲われた村の子どもだったらしい。そこで、傷を負い、特殊な力を得ている。力の強いモンスターに襲われると、まれに自身の力が増幅したり、特殊な力を得たりする。研究所はその事実をひた隠しにして、ジャンみたいな被害者たちを道具にしようとしている。近頃記事になった草食系のモンスターが人を襲うという話も、無関係じゃないはずだ。きっと、ここ数年でモンスターの凶暴化は激化する。人間のためにも、世界のためにも、どうか預けた本が役に立つことを祈っている。

 ジャンは少しばかり勘が強いが、陽気で良い子だ。彼の力は彼を悩ますだろうが、きっと乗り越えられると信じている。

 幸せを祈って。


 小さな字でところどころ筆が乱れている。

「転送用の魔法陣も入っていた。それでやってきたのが、あの子さ」

「来たるべき時っていうのは今なんですか?」

「今だよ」

 その声に振り返ると、昨日店先に座っていた青年──ジャンが笑っていた。笑っているのに、やはり目は死んだままだ。彼が研究所で受けていた仕打ちはどれほどのものだったか。

「勘が強いって書いてあっただろう? だから、ここまで研究所の奴らにも見つからずに済んでいたんだ」

 それが、特殊な力か。ジャンは口元に笑みを称えたまま、じっとジンの顔を見つめる。

「早く帰った方が良いね。なんだか、嫌な雲行きになってるよ」

 ジャンが下を向く。

「おじさんが死んだ日の感じに少し似てる」

 老婆は、ジャンの頭をガシガシと押さえつける。

「あれはお前のせいじゃないと言ったろう。あんたも早く帰った方がいい。あんたかあんたに近い人に何かあるかもしれない」

 すっと胃が沈んだような気がした。動揺が顔に出ないようにとっさに腹に力をいれる。

「そうですか。ご忠告ありがとうございます」

 ファントム・シーフのときには、どんな人間にも弱みを見せるな。それが師匠の教えだった。

 丁寧にお辞儀をして、手紙を老婆に返す。

「ファントム・シーフ」

 ジャンが踵を返そうとしたジンを呼び止める。

「俺と同じ奴がいると思う。俺が頼める義理じゃないのはわかってるんだけど、助けてあげてください」

 ドラゴンに襲われた人間。

 本に写っていた子ども。

 もし、ヨシュアがそうならば、彼は研究所側の人間だ。モンスターを忌み嫌うはずの人間。

「約束はできないです」

「ありがとう」

 約束はできないと言ったはずなのに、ジャンは礼を言った。

 今度こそジンは身を翻す。

「今回も含め、支払いは必ず」

 金貨3枚では足りないほどの、十分な情報をもらった。

「大丈夫だ。こいつがいるから、ワシは変な客につかまったことはない」

 人を見る目はある。その老婆の声を思い出して、ふっと笑いが漏れる。ジャンのことだったか。

 朝陽がジャンと老婆を照らす。

「また」

 

 ジンが朝陽に溶けるように最大限の速さで移動し、待っていたのはリリアの失踪だった。

 ジャンの言葉は的中した。

 ──そして。

 ヨシュアもきっと研究所に囚われている。

 

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