17時間め:森の異変

 胃の底がぐうっと上に持ち上がる感覚がする。

 アンデスの体に自分の身を伏せても、下から吹く突風が体を煽るのがわかる。

 冬を迎え始めた風は冷たいが、アンデスの背中がウォームをかけたように暖かい。

 空の上でも、こんなに強い風が吹くなんて、今のいままで知らなかった。

「マリア、見てみろよ」

 ジンの心なしか弾んだ声が聞こえてきた。

 恐る恐る顔をあげる。

 目に、飛び込んできたのは──。

「リュウークー!」

 ベビードラゴンが歓声をあげる。

 世界すべてが、青だ。

 青い地平線と、先を示すかのように遥か彼方に浮かぶ太陽の光が、世界を力強く縁取る。

 マリアたちを包むすべての空間が青色に染め上げられ、白い雲が眼下を泳ぐように進んでいく。

「ここまで高いところは初めてきた」

 ジンが子どものように目を輝かせる。これほどまでに、ジンが気持ちを露わにするのは珍しい。

「ジン、なんで、そんなに、安定してるの?」

「肉体強化系は得意な魔法だからな。足と手にマックスでかけてる」

 要は、つかんだり、踏ん張ったりする力を最大限にしているということらしい。

 マリアは、また顔に突風を受け、思わず下を向く。肉体強化系は、マリアの最も苦手とする部類の魔法だ。

 アンデスにピタリと張り付いていれば落ちるほどではないが、ヒヤヒヤする。

 うつ伏せのまま、ちらりと後ろを見ると、ベビードラゴンはいつの間にか、ジンの膝の間にちょこんと座っていた。

 こちらも、この突風の中で楽しげに周りをきょろきょろと見回している。自分も飛んでいる気になっているのか、翼をパタパタしているのが可愛らしい。

「マリア、防御魔法かけろ。たぶん、そろそろ降下する」

「え?」

 と声をあげたのと同時に、再び胃が急上昇する。

 急いで、防御魔法をかけた。

 フワッと体が持ち上がったかと思うと、物凄い勢いの圧力が襲いかかってきた。

 上下が反転し、耳がキーンと鳴った。束ねていた髪ゴムがどこかに飛び去り、マリアの碧い髪が空に舞い上がる。風がもはや刃のようにマリアを貫き、つんざくような痛みを剥き出しの腕や頬に感じる。重力がマリアに重くのしかかる。防御魔法をかけていなかったら、間違いなく肋骨が折れていた。

 アンデスと同化するほどに張り付いていると、次第に体にかかる重さが軽くなっていく。

 やがて、背中を柔らかい風がそよいでいった。

 アンデスのドクンドクンと大きく高鳴る鼓動が、次第に落ち着いてくる。

 ゆっくりと顔をあげると、森の木々や地面が見渡せる距離にいた。

 木々の間を小型モンスターが通り抜け、水中モンスターが川の上を飛び跳ねる。

 木々のてっぺんに色付く実はだいだい色で、オレンジのような大きさをしていた。

「マリア、ステルスをかけ流ぞ。万が一にでも見つかったら、リリアを探すどころの話じゃなくなる」

 さすがにアンデスの大きさまではかけられないが、ジンが自分たちだけにでもステルスをかけてくれる。

 ベビードラゴンは以前ステルスをかけても意味がなかったので、二人だけだ。

「こいつも見つかるとやっかいだが、しようがないな。リリアを探そう」

「うん」

 祈るように、森を注意深く見下ろす。

 流れるように進んでいく森から、リリアを探し出せるだろうか。

 マリアは右、ジンは左を見ながら、時折状況を報告する。

「前方、30メートル。木々の乱れているところあり。でも、小型モンスターかも」

「川沿いには、人の姿なし。隠れられる場所もないし、川の中は水中モンスターが何事もなく泳いでいることを考えると、川にはいなさそうだな」

「森の中を通ったんなら、少しはモンスターが騒いでも良いと思うんだけど」

「モンスターがいないところを通ったってことか。モンスターの行動範囲から外れていそうなところを重点的に見るか」

 静かな森の様子に焦りを感じ始める。

 ゆったりと森の中を流れる空気が、逆にマリアを急き立てる。

 ──何かが、おかしい。

 なんだろう、何がおかしいのだろう。

「アンデス、もう一回、同じ場所を見せてくれない?」

 背中を軽く叩いて、アンデスに頼んでみる。

 アンデスがこちらにギョロリと目を向けると、ゆっくりと大きく旋回した。

 木々がそよぎ、小型モンスターが木々の間を通り、川を水中モンスターが泳いでいく。

「静かすぎる」

「静か?」

「冬眠を始めたモンスターがいるとはいえ、まだ初冬と言えるか言えないかという季節よ。この時期、モンスターは冬の身支度で慌ただしいの。なのに、動いているモンスターが少なすぎる」

 じっくりと目を凝らす。

 木々の合間を走り抜けるモンスター。川中を動くモンスターの影。風にそよぐ木々。

「おなじ……」

「え?」

「おなじだわ! 走り抜けるモンスターも川を泳いでるモンスターも同じ動きしかしてない! うそ、幻覚魔法?」

「そんなわけあるか? こんな広範囲の幻覚魔法なんて聞いたことないぞ」

 でも、景色が変わっていないのは本当だ。流れるように見える森の様子からは、わからなかった。同じ景色が何度も繰り返されている。

「こんなことができるのって……」

 後ろを振り返る。天候を司るドラゴンは、幻覚も操るという。それは、魔法ではなく、気圧変動によるものだと言われているが、本当に、ドラゴンが広範囲の幻覚を起こせるとしたら。

 キョトンとベビードラゴンが首を傾げる。耳がピクピクと動く。

「あなた、まさか……」

 キシャアアアー!! 

 突然、アンデスが声をあげる。

「!」

「マリア! つかまれ!」

 突然の急降下に、アンデスから手が離れる。

 マリアの手が空をきり、空へと投げ出された。

 アンデスは我を忘れたかのように、めちゃくちゃな勢いで森へと降下する。

 ──引き離される!

 ジンが、すんでのところで、マリアの手首をつかんだ。このままではジンまで飛ばされてしまう。

「ジン、離して! 私はヒーラーよ! 大丈夫!」

「ダメだ! 離さない!」

 ジンが両手をマリアに伸ばそうとする。

「行って!」

 リリアを探して!

 マリアは、ジンの手に停止の魔法をかける。ジンの手から力が抜け、マリアの腕がすり抜ける。

「マリアァアァァ!」

 ジンの叫び声とともに、マリアは森の中へと吸い込まれて行った。

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