第2話 台風通過
朝から不穏な空気が関東地方、東海地方を包んだ。
確認はしていないが、みなそうだろう。
横浜の友人、長野の友人とラインで前夜十月十一日に連絡を取った。
親類が千葉にしかいない私にとって、他県にいる友人のところに逃げるのが一番気を遣わないで済む。いまや、台風が過ぎた後のように荒廃した親類の家に行くよりも、友人の家に行く方が気が楽なのだ。
友人は気軽に引き受けてくれた。
もちろん、お互い「そんな最悪の状況にはなりはしない」と思っているのだが、「逃げ場」が確保されただけで心理的にはとても楽になった。
当日十二日の早朝五時過ぎ、朝早くコンビニに行って、買い出しに行った。少なくとも午後には外出を控えねばならず、これが最後の買い出しになる予定であった。
雨も風も、さほど強くなかった。
コンビニに着くと、おにぎり、お弁当、サンドイッチなどの食品類はまったくの空の棚。パンも菓子パンや惣菜パンは幾分か残っていたが、食パンやコッペパンなどはなかった。
昨日購入しそびれた、水を二本、氷を一袋、妻に頼まれていたパン類を数個買った。レジをしていた、深夜勤をして眠気が最大になっている二十代半ば過ぎの男性店員に「今日このあと、店閉めますか」と聞いた。「いやあ、ちょっと分らないですね」との返事であった。行ったのはセブンイレブンだが、この時点で店を閉めるという決定をしていたはずだ。
帰宅して、買ってきたパンを食べた。
妻の職場は典型的なブラックと言いたいところだが、職場の性質上、何人かは顔を出さざるを得ない。妻はその立場にいたために、早朝から出勤だった。出る間際には、これから人を殺しに行くヒットマンのような凶悪な表情をしていた。
その妻が朝の七時過ぎに出た。そのときは雨は強くなってきていたが、風はそうでもなかった。
妻は午前十時過ぎに帰宅した。
連載前回を見て欲しいが、前々日に行った沖縄のお土産屋さんで買った食料品が余っていたので、それを昼食に当てた。足テビチ、レトルトのご飯、シジミの味噌汁、豆腐である。ご飯には鮭のふりかけをかけた。
妻が出勤し、帰るころから、体調に異変が起きていた。実は前日の十一日から、膝が妙に痛かった。これはさらに前、ジョギング中に無様にすっころんだために痛めていた。だが十一日には完治していたはずだった。その左足が急に痛み始めた。それと神経を抜いているはずの差し歯のあたりの歯肉、そしてこめかみがズキズキした。足は膝の裏のリンパもウズウズした。低気圧が近づくと古傷が痛むというが、そういう経験はあまりない。今回はそれだけ強烈な低気圧だということだ。
この時点の台風の気圧は九三五ヘクトパスカルくらいだったと思う。あまり聞いたことのないくらい低い数値だ。通常、九六〇ヘクトパスカルくらいだと思う。九六〇でも結構強い。
ラインで友人たちと話す。
横浜では強烈な風と雨だそうだ。
テレビをつけると、ずっとアジられている気分になるので、定期的に見るだけにとどめ、とりだめていたテレビ番組を見てすごそうということになった。「孤独のグルメ」やゴールデンに進出した「マツコ・有吉のかりそめ天国」などを見る。
余談だが、かりそめ天国には「お菓子ちゃん」と呼ばれる女性APさんがいるのだが、彼女を見かけたことがあるかもしれない。とあるターミナル駅で、男連れで歩いていた。男は深刻な顔をしていて、お菓子ちゃんはそんな男を横から、眉根をひそめ、涙目で見つめていた。そのまま二人は駅の方に歩いていった。
そのかりそめ天国だが、とうとう面白くない番組になったという印象だ。結局、見ながら寝てしまった。神経が立っているのか、前夜はあまり眠れなかった。
それでも、台風が上陸する時刻にはすっと目が覚めた。
十二日午後五時三〇分過ぎ、一都五県に特別警戒警報が出されていた。
この時点で朝からの降雨によって、河川の氾濫が始まっていた。
多摩川、荒川、またその支流で氾濫していた。
もう最大限に興奮しているであろうテレビは見たくなかったが、仕方ないので見た。東日本大震災で学んだが、こういう場合、ネットだと情報が錯綜する。つまり、デマを流す輩が頻出する。だから、一つだけでも確定的な情報を流すものが必要なのである。
テレビではまるで流行り言葉のように「命を守る行動を」と言っていた。
もうこうなっては、できることはあまりない。
とにかく家の高いところへ行くくらいだ。
賃貸マンションである我が家ではなにもできない。いよいよまずいとなったら、家を離れ、階段を上り上階に行くだけだ。
外は雨も風も強くなっていた。
が、大台風というほどではなかった。
しかし、それはラッキーなだけだということはわかっていた。
市内でも、河川が氾濫し、避難勧告が出ていたからだ。
台風が近づくことによって、他地域では河川の氾濫の情報が頻発していた。
外の無線放送が聞こえず、内容を確かめようと市のHPにアクセスしようとするも、アクセスが集中していてできない。なぜか、スマホだと見ることができた。
「台風なんか気合いでなんとかなるんだよ」なんて、煽りをくれていた、Youtuberシバターは何を思うのか。
あとは停電との勝負であった。
早めに行動するのがいいと思い、強烈な低気圧による頭痛のために頭を文字通り抱えていた妻を置いて、ご飯を一合炊いた。本当は三合くらい炊いて、明日の分を確保しようかと思ったが、なんだか験が悪い感じがして止した。
七時前にご飯ができたあと、餃子を大量に焼いた。
前日の十一日、よく十二日に休むと早々と決めたスーパーには、そういうものしかなかった。まさか刺身を買うわけにも行かなかったのだ。
ご飯と餃子、残っていたミミガーと豆腐、シジミの味噌汁、奈良漬けが夕飯だった。シジミの味噌汁はレトルトだ。
午後八時にご飯を食べ終えた。
我が家にしては早い時間だ。
いくら災害時でも、食事の慣習をそう帰ることはできない。
おそらく、伊豆に上陸するはずであった午後六時から午後九時がピークの時間帯だろう。
停電も回避できた。
外の風雨は強かった。
ベランダに非常階段が設置されている。非常階段は、鉄製の蓋をあけて出す仕組みになっているのだが、鉄製の蓋が何度も風で開いてしまって、「バタンバタン」と不気味な音を立てた。蓋が外れて、窓ガラスに向かって飛ばなければいいけどな、と嫌な想像をした。ベランダの物干し竿などは共用スペースの廊下に待避させている。外にほぼ野ざらしになっている自転車もなかに入れた。その共用スペースから外階段へと続くドアも、風で「キーキー」音を立てて、開いたり閉じたりしているのが、なかにいてもわかった。
午後九時。
予定では首都圏を台風が抜ける時間帯だった。外がだんだん落ち着いていくのが分った。
風が轟音を立てるなか、吉岡秀隆が金田一耕助を演じる「八つ墓村」が放送されていた。妙に雰囲気が盛り上がってしまった。本来なら、静かな映像を意識していたのだろうけれども。
翌十三日の朝、これを書いている。
現段階では死者数五名という発表がある。
だが、大規模災害の場合、マスメディアでも全容をつかみきれないはずだ。
死者数はもっと増える可能性もある。
「私の家に限って」、という前置きをする。
八つ墓村を見ながら、「なんだか野球の助っ人外国人みたいだ」と思った。
鳴り物入りで入ってくるが、一年保たずに帰る外国人がよくいる。荷物のなかに弾丸が入っていて、強制帰国なんてこともあった。そんな台風で済んでくれた。
だが、地域によっては、もとヤクルトのホーナー、巨人のクロマティ、阪神のランディ・バース、大洋のポンセみたいな活躍をした台風に見えただろう。世田谷でも、多摩川沿いは決壊して大変だったようだ。
今回は私の経験した「令和元年 台風十九号」の顛末を書いた。
被害に遭われた方、未だ停電しているところもあるだろう。
末筆ではあるが、そういう方々にはお見舞いを申し上げたい。
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