おさない僕

僕は補講5日目にしてある事に気がついた。



そういえば夏休みに入ってから一度もあのバスに乗ってないな。



数学の補講は午後から始まり、1学期の通常授業より30分くらい早く終わる。


にしても高校生に1時間半も授業を受けさせるなんて。一コマでも勘弁して欲しいものだ。


加藤と安田が授業中に騒ぎ出す理由も、なんとなくだが分かる気がした。






僕の通う東雲高校は進学校とまではいかないものの、そこそこの進学実績はあるためか自習室を併設する図書室などは夏休み中も空いている日がある。


僕はいつものバスに乗るまでの間、この図書室で涼むことを決めた。




にしても今日も暑いな





30分が経つのは早かった。毎日出される補講課題にかかる時間がちょうどそのくらいだった為だ。


僕は図書室を後にし、高校のバス停へと向かった。








いつものバスだ。



ただ普段より小学生くらいの子供の数が多いように感じた。



今日のバスはとても賑やかだ。






いつもの途中のバス停から、いつものお爺さんが乗ってきた。


また僕は気付かれぬように前方座席の客の陰に隠れた。



久々にこの光景に出くわした気がした。

懐かしい空間だ。




僕、お爺さん、小学生4.5人、その他数人を乗せたバスはいつもの経路を走る。






「まもなく旭ヶ丘三丁目、旭ヶ丘三丁目です。お降りのお客様は降車ボタンでお知らせ下さい」





どうせ誰もボタンを押さない。そんな事は分かっている。


しかし、意地というか癖でギリギリまで押したくないという思いがあった。





ポストが見えてきた。そろそろボタンを…



「あれっ! ここだよね。ここだ」

「あ、うん!そうだよ」


ピンポーン♪




押された。


押したのは小学生のグループだ。




新鮮すぎるこの状況に僕は動揺した。初めてのパターンだ。





始終を見たいと思った僕は一番最後にバスを降りようと思った。




バスが停まった。



小学生グループが先に降りていった。

行き先は目の前の公園だった。




続いてお爺さんが立ち上がり、すぐに降りるかと思えば、立ち止まって一瞬僕が座る後部座席の方を見てきた。




しかし僕と目が合った訳ではなかった。




お爺さんはゆっくりとバスを降り、歩道に完全に降り立った所で閉扉しバスは発車した。




降り遅れというものを人生で初めて体験した。







一つ隣のバス停は終点だった。


旭ヶ丘団地というそのバス停の周りには80年代頃に建てられたであろうマンモス団地が広がっている。


この辺りには何度か来たことはあるが、ここが終点だとは今まで気付かなかった。





暑い中、教材を持った状態でいつもより余分に1キロほど歩いて疲れた僕は、これでもかというくらいにぐっすりと眠ることが出来た。







起きた。

今日は雨だ。


強くはないが、部活などは中止になるくらいの雨だ。もっとも、帰宅部の僕には全く関係のない事であった。





今日は雨の音が静かな分、教室は騒がしかった。


安田と加藤が居るからである。


雨の日の補講とこの二人の組み合わせは初めてだ。



補講の内容は二次方程式のまとめに入っていた。


「D=0の時、これは二次関数と直線が一点で接することを意味する。この時、交点は1箇所だけになる。しかし、認識としては2つの解の値が一致したという意味であり、あくまで一つの点で二つの解を担っていると考えるのが妥当だ。」



まとめということで、数学教師は場合分けの時に忘れがちな重解についての説明を詳しくしていた。







今日も雨か。



僕は図書室で課題をやり、いつものバスに乗った。




いつも通りのバス停でお爺さんが乗ってきた。



昨日とは違い、今日のバスは小学生が乗っていない。







今日は終点まで行こう。

ボタンは押さずに終点まで行こう。



もう僕にできることはこれしか無かった。


これで分からなければ分からない。

今日でケリをつけよう。








「まもなく旭ヶ丘三丁目、旭ヶ丘三丁目です。お降りのお客様は降車ボタンでお知らせ下さい」




バスは進む。

今日はバスがどうなるのか僕には分からない。




赤いポストが見えてきた。



僕は終点まで行く。僕は押さない。絶対に押さない。



バスの速度は全く落ちない。




僕とお爺さんと他数人の乗客の空間は等速直線運動を続けていた。




バスは進む。

赤い箱を横切って。






「はい通過します。」






旭ヶ丘三丁目でこのアナウンスを聞いたのは初めてだったが、それよりもそのバス停を越えた地点の車内に僕とお爺さんがいるという空間に違和感を感じずにはいられなかった。








「まもなく終点、旭ヶ丘団地、旭ヶ丘団地です。お降りのお客様はお忘れ物の無い様、ご注意下さい。ご乗車ありがとうございました。」




昨日と同じ放送を流し、バスは終点に着いた。






7〜8人の客が降りる。お爺さんも続いて立ち上がり、また後部座席の方を見てくる。




隠れた。

狭かったが前方座席の陰に隠れた。



ここで目が合うのは本当に気まずいと思ったからだ。咄嗟の反応である。




お爺さんがバスの中扉から降りかけた時に、ようやく僕も立ち上がり、小走りで運転手横の前扉から降りた。



お爺さんは旭ヶ丘三丁目の方向へゆっくりと歩いて行った。





僕は彼の後ろ姿を見ながらがっかりした。


夏休み前からずっと気にしていたことがこんなに呆気なく終わってしまうなんて。




恐らく彼は気まぐれで降りていたのだろう。

誰かがボタンを押したから降りる。

そんな感じだ。




全てがどうでも良くなった。




小さい事が気になる、そういう年頃なんだと自分を客観的に見て恥ずかしくなった。




今日は少し寄り道して帰ろう。

雨は降っているが涼しくて歩きやすい。




僕は靴の中を雨水で浸しながら帰路へとついた。














あの脚の悪いお爺さんの家が公園のすぐ近くにあると知ったのはもう少し先のことである。




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降車ボタンを押さないお爺さん ふーせん @balloon_tea

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