第5話

「ごめんごめん、君をからかってたら妹を思い出しちゃってさ。流石に調子に乗っちゃったよ」


 黒木場先輩は未だに笑っている。どうやら俺の反応が相当ツボに入ったらしい。

 一方で俺は相変わらず何も言えなかった。それどころかずっと伏せたままだ。流石にこのままじゃ話が進まないだろうと思って、ゆっくりとなるべく慎重に起き上がる。


「で、どうだいキーボードは」


 そのタイミングを見計らって先輩が尋ねてきた。俺は制服の汚れを一通り払ってから、


「やっぱり難しそうってイメージは変わりません。でも……凄く理に適っているというか、背に腹は代えられないというか。これしかないなって気もしました」

「そうかい、そう言ってくれるだけでも嬉しいよ。流石に志望者ゼロじゃ寂しいからねぇ」

「…………」


 色々と伝えたいことはあった。だけどそれは中々上手くまとまってくれない。こうやって会話のテンポを合わせられないからぼっちになるんだろうなって自嘲してしまった。それでも黒木場先輩はそんな俺の言葉を楽しそうに待ってくれている。


「あの、先輩はその後バンド組めたんですか?」

「あぁ、勿論組めたよ。……誰に恥じることもない、最高のバンドだ」


 そう言って微笑む黒木場先輩はとても綺麗だった。

 暮れなずむ夕日が差す先輩の横顔には嘘なんて微塵も存在しなくて、嫉妬するのも憚られるほどに眩しい。青春の全てがその横顔に詰まっているような気がした。


 ……俺なんかがこの人に憧れるのは烏滸がましいことなのかも知れない。だけど、


「俺……キーボード、やります」


 気付けばこんなことを口走っている自分がいた。

「そうか……。ありがとう!」

 そして黒木場先輩は、その時初めて子供のように無邪気な笑顔を見せてくれた。



 予備校があるらしい黒木場先輩と別れる。視聴覚室では相変わらず楽器講座が続いていた。参加すべきか迷ったけど、俺は鞄を背負って部室を後にする。


 この決意と勢いに任せてやりたいことがあった。きっと俺は、こうでもしないと変われないだろうから。いつだって初めにできない理由を探してしまう俺は、自分を追い詰めていかないと前に進めないんだ。


 早足で廊下を歩き、階段を二段飛ばしで下りる。

 校舎裏の駐輪場に向かう頃には走り始めていて、自転車に跨るとそれは猛スピードに変わっていた。怒鳴って注意する教師の声は随分と遠い。


 ワクワクしていた。こんな気持ちになったのはいつ振りか分からない。合格発表の瞬間でさえ他人事のように眺めていた俺だってのに。


 駅まで一直線で続く上り坂を立ち漕ぎで走る。楽しそうに肩を並べて歩道を歩いている生徒を車道から追い抜いていく。

 登り切った先にあるコンビニで全財産を下した。握りしめた万札は全部で十枚。ずっと欲しいものが見つからなかった俺が、いつかの為に貯め続けてきた大切なお年玉だ。


「婆ちゃん、ありがとう」


 呟いた独り言は誰かに聞かれただろうか。構わない。それより今は――。

 再び自転車に跨る。

 向かう場所は商店街。確かあそこに一軒、閉まってないことが不思議なぐらい誰も来ない楽器屋があったはずだ。もっと店を吟味した方がいいのかも知れない。頭で理解していても、その判断に身を任せたくなかった。


 ワクワクしていた。もう、自分が自分じゃないみたいに。

 だから俺は、カウンターで眠たそうにラジオを聴いている店員に開口一番大声で叫んでやったんだ。


「すみません、キーボードください!」


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