第4話

「…………キーボード、ですか」


 目の前のその楽器をまじまじと見つめる。

 最初に目についたのはやはり黒と白の連なる鍵盤だ。そしてそいつを見た瞬間に無理だと悟った。いやいやいや、無理でしょ。だってこれ、殆どピアノみたいなもんじゃん……。初心者がいきなりチャレンジしていい楽器じゃないって。鍵盤の上になんかやたらとボタンあるし。最早ピアノよりもハードル高い可能性すらあるんだが……。


「無理だって思った?」

「はい」

「正直だね」


 黒木場先輩はクスクス笑って、

「だけどそれは君の思い過ごしだ。キーボードだって他の楽器とそこまで難易度は変わらないよ?」

「んー……」


 唸る俺。とてもじゃないがそうは思えない。もしそうならキーボードを志望する人間があの場所にいていいはずだし。


「まあ言いたいことは大体分かるよ」


 そう言って先輩は唐突にケースをまさぐり始める。そこからイヤホンを取り出して、キーボードにプラグを差し込んだ。そして左耳にイヤホンを付けてから、


「こっちに来てごらん」


 俺を手招きする。言われた通りに近寄って、恐る恐る隣に座ると、イヤホンを手渡された上にぎゅっと距離を詰められた。


「先輩、その……」

「いいから」


 いや、良くないでしょ。か、肩とか思いっ切り当たってますよ……? オマケにイヤホンのシェアとかその、俺が一番嫉妬してきた類のシチュエーションなんですが……。


「君は今勘違いをしてるんだ。キーボードはピアノだけじゃない。確かに初めから弾けるならそれに越したことはないだろう。だけどそれは他の楽器だって一緒だ。違うかい?」

「違わ、ないです……」

「だろう? だけど君はキーボードは他の楽器よりもハードルが高いと思っている。それは君がピアノのように一人で曲を演奏することを想定しているからだ。でも実際はそうじゃない。ここは軽音楽部。キーボードは誰かと一緒にバンドで演奏するための楽器だ。そうなると求められる技術はピアノよりもぐっと下がってくる。そう思わないかい?」

「…………」


 コクリと頷く。

 思うとか思わない以前に耳元で話してくる黒木場先輩の声に洗脳されそうになっていた。


「キーボードはね、とても奥が深い楽器なんだよ」


 そう言って先輩は演奏を始める。初めは綺麗なピアノで俺でも聴いたことのある曲のイントロを、やがてその音色はオルガンになったり、レトロゲームを彷彿させる電子音になったり七色に変化していく。


「こんなことだってできるよ」


 今度はドラムがビートを刻み始める。そのリズムに合わせてベースがフレーズを奏でる。その二つがループして、それに被さるかのように先輩がピアノを弾き始める。それはもう、曲と呼んで全く差支えのない代物になっていた。


「凄い……」

 思わず声が出る。だけどやっぱこれ俺には――

「って、これじゃハードル上げちゃうね。ごめんごめん」


 黒木場先輩は俺の思考を先読みして笑った。だから俺も思ったことを一旦呑み込む。


「他にもこんなのもあるよ」


 今度は単純だった。

 先輩が鍵盤を押す度に効果音が鳴るのだ。車のクラクションだったり、何かが割れる音だったり、電話のベルだったり。一体何処で使うんだと思えるようなものが次々と耳に流れ込んでくる。


「どうだい、楽しいだろ? 君も押してごらん」


 言われた通りに押してみる。確かに楽しかった。それは知らないおもちゃ箱をひっくり返す時のワクワクに似ていた。俺が反応すると先輩も同じように笑う。それがまた嬉しくて、俺は躊躇うことなくどんどん鍵盤を押していく。


 ――そして俺はそのパンドラの鍵盤に行き着いてしまったんだ。


『……ぁ、ンッ』


 単刀直入に言うとそれは喘ぎ声だった。問題なのは、この声に明らかに聞き覚えがあることだ。


「あの、これって……」

「あぁ、これかー」


 先輩はまたニタっと口角を吊り上げる。そして自分の左腕を俺の腕に重ね合わせ、掌も覆いかぶせて、その悪魔のキーを連打し始めた。


「このキーボードにはサンプリング機能があってね。外部の音を録音できるんだ。だから聞き覚えがあるだろう? つまりこれは――」

「わあああああああ!」


 童貞には刺激が強すぎた!

 なんとか腕を振りほどく。ゴキブリのように地を這って黒木場先輩と距離を取った。起き上がれない。起き上がれるわけがない!


「ふふ、君はぼっちかい? それとも……」


 俺は何も答えなかった。「ちなみに大城のもあるよ」と心底楽しそうに笑う先輩の声は、全力で聞こえなかったことにした。

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