第26話 狂乱する。

 一瞬ドキリとした。

 白い髪に色素の薄い青い目。そして、狂気。

 だが、それだけだった。肩に届くかどうかくらいの長さの髪は、狂気に煽られるように、後方に流れ逆立っている。背は僕よりもはるかに高く、手足も長い。極端に猫背で手は地面に着きそうなほどだが、目線はバドルさんよりも高い。肩甲骨が羽のようにボコりと突き出したその容姿は、とてもジャンヌには似ても似つかないものだ。


「これをやったのは、お前らか?」


 みんなが息を飲んだ。


 距離を置いていても、男の吐く息は炎のように熱く、周囲を埋め尽くすように感じられた。


 目の前にいたメイヤーさんの身体が、爆ぜるように消えた。血と骨の欠片が僕の体を打った。

 頭だけになって砂に落ちたメイヤーさんと目が合った。それから目は、僕から逸れ、キョロキョロとトンプソンさんを見つけて、止まった。


「サクサクいこうぜ。ま、実際どうでもいいんだけどさ。」

「ち、違う。お、俺たちではない。」


 震える体を押さえて、搾り出し答えたトンプソンさんの身体が弾け飛んだ。


「だからさ、どうでもいいんだよ。気に入らねぇ。なんなのお前ら。人の顔おっかねぇ顔して見やがって、俺の顔になんかついてる?なんな?イラつく。クックック。」


 フゥ、フゥとバドルさんの呼吸がおかしい。僕の胸もおかしい。胸の中で風船を膨らまされている感じだ。飛び出そうなのに、引っかかって出てこない。


「クックック。ケハァハハハハァアァァーーーー!」

「逃げろぉーーー!!」


 男の発狂した叫び声は、僕らの呼吸を止めるのに十分なものだった。バドルさんが退却を促した。後方に控えているザックさん達に届くように。僕とバドルさんが同時に、後退するように振り返るところだった。向かい合う形になったバドルさんが、縦に3つに分かれた。次の瞬間には横に5つに裂かれて15個に。さらに次には、もうわからないくらい粉微塵に吹き飛んだ。


「カァーー!!」


 男はいつの間にか、僕のすぐ側、2歩先くらいの近くにいた。つい今までバドルさんがいた場所に。


「お前、何を隠している?その中身、フン、見せろよ。」


 男は僕の背後に回った。男が何をしたのか見ることはできないが、リュックの中身が全部、砂に落ちた。その中には、ジャンヌだった爪が入っている。


「これだ。…アハ。お前、あいつを殺したのか。人間のくせに。クックッ。面白れぇ。面白れぇのがいるもんだ。ガキィ。フヘッ。」


 …まるで生きた心地がしない。


「…蟻んこがさ、集まってさ、自分らの背より、スゲェ高い塔を作るじゃんよ。フフッ、あれをさ、いちばん楽しくぶっ壊すには、どうすりゃいい?」


 どうやったら、この男から逃げられる?


 僕が、恐る恐る男の方を見ると、男は細切れになったバドルさんの肉片を、塔のように高く積み上げていた。

 そして、心臓を指でつまんで舐る。

 その心臓はまだドクドクと脈を打っている。


 その心臓越しの向こうには、生気を抜かれたように立ち尽くしている、胸の辺りが大きく空白になったザックさんがいた。


 ザックさんは、僕に何か言いたそうな目を向けていた。

 しかし、何も言わなかった。


 ザックさんはそのまま、胸の辺りから折れて、仰向けに倒れた。


「に、逃げろって、逃げろってバドルさんが言ったじゃないか!逃げろよ。逃げてろよぉーーーー!!」


 ふと、濃い血の臭いが、僕の鼻を突いた。


 シンバルさんとコーネリアさんは逃げただろうか。

 

 男の狂気の目が僕を見ていた。


「へぇ~。まだ、いんのか?じゃ、お前。フフン。もういいや。」


 スッと視界が黒い幕に覆われる。周囲の温度が急激に上昇する。服がチリと音を立てる。皮膚が捲れる。

 僕は慌てて目を瞑った。目を瞑っても瞼を越えた光が、視界を赤く染める。


「消えろ!ッハーーーァッハ!」


 次の瞬間、爆発の轟音と共に僕は引っ張られるように後ろに弾かれた。


 あれ?まだ、生きてる?


 綱で吊られているようなゆっくとした浮遊感の後、背中が一度柔らかいものに受け止められ、僕は砂の上に転がった。


 どうやら僕を受け止めたのは、ジャンヌもどきの人形?だった。

 僕と一緒にエルコも爆発に飛ばされたようだ。同じようにジャンヌ達にぶつかって、隣に転がった。


「パパは、ボクが守るから。ボクをもっと頼ってよね。」


 いや、普通は親が子を守るものです。…親失格…(泣)。でも、


「ありがとう。」

「へへっ、やったね。」


 エルコの足元、砂の中から木の枝が5本伸びて、5人のジャンヌもどきの人形にそれぞれ刺さった。程無く人形は枯れて、最後には粉と消えてしまった。後にはまた、大きな爪が5つ残った。


「イヒッ。ヴァーンパーイアー。ケッケッケ。…グェ!」


 突然、男の直下から太い木の幹が伸び、顎を打った。勢いで舌が噛み千切られ、ベトリと落ちる。

 男の身体は仰け反り、宙に打ち上げられた。


 さらに何本もの木の幹が、鞭のようにしなって男を襲った。鞭といっても僕の身体よりも太い木の幹である。

 砂が爆発の瞬間のフラッシュのような模様を描いた。


 エルコは男を圧倒しているように見えた。しかし、男は立ち上がる。大木が鞭のように振るわれる中を、腕で弾きながら立ち上がった。


「アァーハッハッハーーー!!」


 男の下卑た笑い声が、耳に嫌によく通った。


 男がエルコの攻撃に合わせて、腕を振るう。

 輪切りになった幹が壁に打ちつけられたり、水に落ちて流されたりした。


 なお、エルコの攻撃は続くが、男はもろともしていない。


 閃光が走った。


 エルコが飛ばされて壁に激突し、落ちて、人形のように倒れた。


「クェ、よふぇ。」


 だが、大木のうなりは止まらない。数本の幹が集まり、男を押しつぶした。ように見えた。

 しかし、これも男の腕一本に遮られ、身体には届かない。 


 エルコはさらに、手を増やし、攻撃は激しさを増した。


 再び閃光が走った。


 エルコの上半身が吹き飛んだ。けれども攻撃は終わらない。


 数本の枝に支えられているエルコの体は、ただの木の塊で、もはやエルコの原型を留めていなかった。



 僕はゆっくりと深呼吸をした。一歩踏み出す。


 男は密やかに近づく僕の姿を捉えていない。僕はナイフに、十分にマナを込めた。


 エルコの攻撃を避けるために、男が身体を仰け反る一瞬。

 僕は男の首をめがけて、ナイフを横に薙いだ。


「おメぇ、もっおよふぇ、ケーッケェ。ハカッエフォ。」


 ナイフは十分な切れ味を示した。が、長さが足りない。皮一枚残って、男の頭は首にぶら下がっていた。


 衝撃があって、僕は目の前が真っ暗になった。気を失ったわけではない。目が見えなくなったのだ。気ばかりが焦った。エルコが、エルコがやばい。こんな時にいよいよ僕は、何もできないのだ。


「もうおふぁいか?もっふぉ、ガフッ、おいお。」


 エルコ!生きてるか。助けるぞ。僕が助ける。絶対に。


バチィ!!


 どこだ、どこにいる。僕は足は動く。手も動く。僕は音のする方へ向かう。


「アハハハハァ!」


 脇腹に衝撃が走った。何か身体から出ていくような感触があるが、痛みはたいしたことない。エルコは無事か?


「アッ…アハハハハ…お、戻った戻った。ケェ、気持ち悪いな。お前。」


 何かが僕に近づいてくる。すごい熱を感じる。




 …


 あれ、僕は今どうなっているんだ。自分が立っているのか、寝ているのかもわからない。


 急に、音も無くなった。


 どこだ?どこにいる。


 …


 みんな、逃げたかな?



 なぁ、エルコ。聞こえるか?


 パパが助けてやるからな。



 バチィ!


 あっ、音が。


 スイッチが入った。そんな感じだった。今までの自分の知らない自分に繋がった感じだ。


 聴覚が、嗅覚が、味覚が、触覚が、視覚が戻ってくる。


 辺りを薄く白い膜が覆っている。これが何か僕にはわかる。何物も通さない絶対障壁。目の前の男に初めて焦りが見えた。

 は右手を振り上げた。狂気によって創られた哀れな、この世には存在しないモノ。神聖の力はお前の存在を許さない。”聖なる葬送曲ホーリーレクイエム”。


 光に包まれた男の身体が赤黒く変色する。皮膚が溶け出し、骨が露出する。


「お前、爪に勝ったくらいでいい気になんなよ。俺は、魔王サタン様の牙!牙王だぜぇ!!」



 徐々に光が強くなり、身体は塵と消えていく。




「パパ!」


 エルコの声に、僕は我に返った。男を覆っていた光も、それと同時に霧散した。


 僕はすっかり力が抜けてしまい、立っているのもやっとの状態だった。

 それに、腕や服に穴の開いた腹の辺りなどの見える部分だけでも、僕の身体は焼け焦げていたり、皮膚が落ちて肉が露出したりしていた。

 倒れているエルコに近づき無事を確認した。エルコもかなり力を消耗していた。立つこともできなかったので、そのまま僕の中に戻っていった。





 さて、このままでは、地上に戻る力もない。少し休んでいくか。


 すぐそばには、ジャンヌだった爪が落ちていた。この世には、存在を許されないモノか…。


 メイヤーさん、バドルさん、ザックさん、トンプソンさん、…。ごめんなさい。僕は何もできなかった。


 コーネリアさんとシンバルさんは無事だろうか…。



 薬草豆を飲み込み、身体にマナを循環させて、流れをいろいろと整える。傷を治すだけではなく、疲労回復も効果的です。


 投げ出されていたナイフを取り上げ、腰紐に差しなおした。


 …爪も牙も、ここに置いていこう。…いや、埋めておこうか。


 立ち上がり、軽く穴を掘る。爪が6つに、牙は…あれ?


 辺りを見回すと、牙王と名乗っていた男の一部、顔半分が砂まみれで落ちていた。改めて見ると、すごい形相である。…魔王サタンの牙か。ということは、魔王はまだ生きている…か。


 …お父様…。





 ギョロリ、牙王の目が動いた。目が合う。

 突風によって、僕の身体は大きく後ろに飛ばされた。飛ばされながら僕は牙王の最後の言葉を聞いた。


「カーッハァ!!最後っ屁って奴だ。ザマァ…」


 言いながら、牙王はただの牙へと形を変えた。


 僕は水面に叩きつけられ、身体が一度跳ねて水に落ちた。流れに嵌ってしまった。僕は地下水脈の強い流れに飲まれてしまったのだ。

 水の流れは容赦なく、僕を水中に引きずり込む。息ができない。ダメだ。マナを集中する余裕もない。



 意識が…。




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