第四話 瑛理子は小学生を甘やかしたい
いーちゃんの家で『ママごはん』対決が始まって、すぐのこと。
私は慌てて自分の住むマンションに戻って、キッチンと冷蔵庫を交互に物色した。
いーちゃんが食べたい物。好きな物。それって一体、何だろう?
「うーん。私が作る物なら、何でも喜んで食べちゃうからなあ……でも、基本的には男の子の舌だから、メニューも偏りがちになっちゃうよね」
ちなみにいーちゃんが好きなのは、カレー、パスタ、オムライス、ハンバーグだ。
この四つを出すと「お、今日も美味しそうだね」なんて澄まし顔で言いつつも、食べ始めると口元が緩み始めるから分かりやすい。本当に可愛い。萌える!
「やっぱり定番のとろふわオムライスかな? 最近、いーちゃんも『自分で作りたい!』って言いだすくらいには好評だし! あれ? でも料理を覚えちゃったら……!」
例えばいつものように、私が帰宅中のいーちゃんに声をかけるとします。
「いーちゃん! 今日はお姉さんの家でご飯を食べる? ちなみにメニューはオムライスだよ! あのね、今日は特製ホワイトソースを作ったのです。えへへ。褒めてくれる?」
だけどそんな私に、いーちゃんは苦笑いしながら答えるのです。
「ああ、ごめん。今日は自分で作るからいいよ。それに一緒に食べる相手が居るから」
「えっ……そ、それって。もしかして、女の子?」
声を震わせながら尋ねる私に、いーちゃんは照れたようにはにかんで。
「う、うん。俺の手料理を食べたいって言うから。エリ姉に教わったメニューを振舞ってあげようかな、って。これもエリ姉のおかげだね。ありがとう」
そしていーちゃんは泣きそうになっている私に気付くことなく、可愛い恋人に電話をして今晩の予定を立てて、私の前から居なくなって。それから――。
「そんなの、ぜったいだめー!」
思わず叫んでしまった瞬間、我に返って顔が赤くなるのを感じた。
ば、ばかなの? 私って、もしかしてばかなのかな? 一人で自分勝手な妄想をして、急に叫ぶとか! 私もう二十代半ばを目前に控えたレディなのですが!
「……妄想癖、直さないと嫌われちゃうかなあ。って、今はそれよりも!」
瑛理子劇場を脳内で展開して、気付けばもう十分以上経っていた。
そろそろメニューを考えないと遅くなっちゃう。けど、どうしよう?
「そもそも、私がいーちゃんにご飯を初めて振るったのっていつだっけ?」
そうだ、確かあれは……私がまだ中学二年生の頃だ。
◇◇◇
「少年。こんな時間まで公園で遊んでいると、大変なことになるよー?」
中学二年の頃、私は演劇部の一員として毎日遅くまで稽古を続けていた。
そんなある日の帰り道。日が落ちかけた春の公園で、ベンチに一人座る可愛い男の子を見つけたのだ。
「……エリ姉ちゃん」
ご近所に住む可愛い男の子こと、いーちゃんだ。
いーちゃんのお母さん、燈子さんと私は友達だった。私が幼稚園生の頃、当時高校生だった燈子さんに、よく遊んでもらい、時には甘やかしてもらったものだ。
その燈子さんは数年前に亡くなってしまったけれど。
「何だか暗い顔をしているね、いーちゃん? お姉さんで良ければ話を聞きましょう!」
燈子さんの息子であるいーちゃんとは、今もこうして交流が続いている。
まあ、私が会う度に一方的に可愛がっているだけで、いーちゃんは鬱陶しいと思っているかもしれないけどね!
「何でもないから、放っておいてよ」
いーちゃんは私から顔を背けて、会話を拒否する。ちょっとだけ生意気な少年っぽいけど……これはこれで悪くないね!
「ダメだよ、いーちゃん。悪いお姉さんに誘拐されたらどうするつもり?」
「え、エリ姉ちゃんは別に悪いお姉さんじゃない……よね?」
「うふふ。さあ、どうでしょう? ところでいーちゃん、少年法って知っている?」
「良く分からないけど、エリ姉ちゃんが今から僕に悪いことをしそうな気がする……」
思えばいーちゃんは当時から賢かったなあ。お父さんの教育が良かったのかも。
とはいえ、この頃はまだ私にとっていーちゃんはあくまで可愛い弟みたいなものです。
「それはさておき。ほら、帰らないとお父さんが心配するよ? お姉さんが家まで送ってあげるから、一緒に」
「嫌だってば!」
私が手を伸ばすと、いーちゃんは強い力でそれを振り払って。
呆気に取られている私を見て、ハッとしたように目を見開いて再び顔を背けてしまう。
心配している私に対して、いけないことをしてしまった意識があったのかも。
「……分かった。だったら、そこに居てね」
私の言葉に、いーちゃんは何かを言いたそうに沈痛な面持ちを浮かべたけれど。
そんな可愛い少年を置き去りにして、私は走って家に帰ったのだった。
それから一時間くらい経っただろうか。
日が完全に落ちて暗くなった道を、私は「もう一度」走っていた。
「お待たせ、いーちゃん!」
再び戻って来ると、可愛い少年はベンチで体育座りをして顔を伏せていた。
私の声に驚き、伏せた顔を慌てて上げたいーちゃんの目は潤んでいて。
「え、エリ姉ちゃん……なんで?」
「そこに居てね、って約束したでしょう? えへへ。お姉さんは可愛い男の子を見捨てるほど酷い女じゃないよ! それに、お腹も空いただろうと思ってね」
私はいーちゃんの隣に座って、小さな手提げ袋から小さいペットボトルのお茶と、真ん丸のおにぎりを取り出す。
「はい、おにぎりです! 急いで作ったから、海苔も巻き忘れた塩味だけど……料理が出来ないなりに、頑張って握ってみました! 食べてくれる?」
一人暮らしを始めるまで、私は料理が出来なかった。そう。おにぎりすら三角形に握れないほど、調理スキルの無い中学生だったのだ。
だけどいーちゃんはよっぽどお腹が減っていたのか、そんなことを一切気にもせず。
「……いただきます」
私のおにぎりを一心不乱に食べ始め、あっという間に完食してしまった。
誰かが自分の作った物を美味しそうに食べてくれる喜びは、この時に知ったのかもしれない。
「ごちそうさま、でした」
「うふふ。お粗末様でした! はい、お茶も飲んでいいよ?」
いーちゃんは丁寧に食後の挨拶を終え、私から渡されたお茶を口に含む。
それから少しだけ沈黙が続き、誰も居ない公園に静寂が広がりかけた頃。
「あのね、エリ姉ちゃん。僕は……他の人と違う、のかなあ」
弱々しく振り絞ったいーちゃんの声が、私たちの世界に広がっていく。
その言葉の真意が分からず、私はいーちゃんの続きを待った。
「道徳の授業で……お母さんに毎日の感謝をする、そういうお話があったの。先生は皆に一人ずつお母さんの好きなところを言わせた、けど。だけど……僕は」
そうだ。いーちゃんにはお母さん、燈子さんが居ないから。
きっと、何を答えたらいいか分からなかったのかもしれない。
「先生は『久遠君の家は特別だから』って、代わりに父さんの好きなところを教えてくれって言われたけど、その後の休み時間に、僕は、みんなに……とくべつ、だからって」
幼い声はそこで止まり、鼻を啜る音と、小さな嗚咽が聞こえてきた。
いーちゃんの家庭事情を忘れていたのかもしれないけど、無神経な先生だと思う。
そっか。それでからかわれて、いーちゃんは家に帰りたくなくなっちゃったのね。
「そうだね、いーちゃんは特別だね」
私がハッキリと告げた言葉に、いーちゃんは信じられないようなものを見るような目を向けてきたけれど、大丈夫!
「お母さんが居なくて、お父さんと二人で暮らして、だけど弱音を吐かない! 挫けないし、前向きだし、宿題もやるし、歯も磨く! ねえ、これってすごいことだよ?」
そうだ。いーちゃんは特別だ。他の子とは違う、大変な人生を強いられている。
特別な境遇に居る。だけど、それでもいーちゃんは頑張って「今」を生きているから。
「他の子がお母さんに叱られながらやっていること、いーちゃんは燈子さんとの約束を守って頑張って、しかも一人で出来ているの。君はとっても立派なんだよ?」
「だ、だけど! 僕は……みんなと違う、から」
「そうだね。だけど人はみんな違うよ? これから君が出会う人は誰一人同じじゃない。私だっていーちゃんと違う。だからそれでいいの!」
私はいーちゃんを抱きしめて、その温もりにかつて好きだった人を重ねる。
やっぱり、いーちゃんはあの人と……燈子さんと同じ匂いがするね。二人とも、私の大好きな人だよ。
「それでも甘えたい時や、泣きたい時は、エリ姉ちゃんが胸を貸すよ! だからね、いーちゃん。今日、悔しくて恥ずかしかった気持ちを、今は全部吐き出しちゃっていいよ?」
幼い頃の私が燈子さんにそうしてもらったように――。
「エリ姉ちゃん……え、りね……え。う、ううっ。うわーんっ!」
それから、いーちゃんは堰を切ったように泣き始めた。
きっと、もう何年もお母さんのことで泣いていなかったのだと思う。
ねえ、燈子さん。あなたの愛した子供は、今もこうして頑張って生きているよ。
だからあなたが許してくれるなら、私が……燈子さんの代わりになりたい。
いーちゃんにとっての『特別』に、私がなってあげてもいいですか。
◇◇◇
「……あの後、泣きつかれたいーちゃんをおぶって家まで送ったっけ。次の日はすっかり元気になっていたから、泣いたことすら忘れちゃったのかもしれないけど」
よし、決めた。
いーちゃんには久しぶりに、私のおにぎりを振舞ってあげよう!
あの日からずっと抱いた想いを込めた、エリ姉の愛情たっぷりおにぎりを!
「いーちゃんは忘れていても、私はずっと覚えているからね!」
私が一番長く、いーちゃんの成長を見守ってきたから。
燈子さんからもらった愛を、私がいーちゃんにあげて、それから……。
大好きな「彼」が、大切な「誰か」を見つけて、その愛を与えるまで。
まだまだ、私のお世話は続くのです。ふふっ。
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