ラベンダー畑に死す
迫 公則
見舞客が殺した。
日々の生活の中に、訳もなくやってきて、歓迎されるはずもない退屈や、湿った空気の中から湧き出たような物憂い心の状態を倦怠症候群(アンニュイ・シンドローム)と呼んでいる。
これは同じ憂鬱な状態の、曇り空の時のように何もかもが沈んで見えるような症状、鬱症候群(メランコリー・シンドローム)とは区別されている。
ここに、愚にもつかない物語を述べることを許してもらえるなら、私の過去の真実を少しだけ語らせてもらえないだろうか。それはあなた方にとって、これから生きていくうえで、何の参考にもならないかもしれない。糧と呼べるものでもない。ひとりよがりだと嘲られるに相違ない。
でも、どうしても誰かに伝えたくてしょうがない。なぜなら、それは今、退屈だから…。
もしあの時、彼女と富良野のラベンダー畑で出会わなかったら……。
このごろよく思い出に耽る。思い出に縛られて生きる毎日が、惨めだと軽蔑さえしていた若い頃よ--あれから30年も経った。
夏の淡い風に揺れる髪に似て、甘い香りのする追懐の日々は、彼女の本心を決めつけていた時のイメージを優しく蘇らせる。
私は私の心の中で、彼女のイメージを育ててきた。ほら、誰にでもあるだろう? 小学校の時なんかにいた好きな異性を、大人になってからもすばらしい人になっていると信じていたい--。
富良野の写真を見るたび、彼女との出会いを思い出さずにはいられない。歳のせいか、つい昨日のことまでも思い出せないのに、昔のことははっきりと覚えている。私はあれから彼女のことをずっと心の中に閉じ込めていた。
私はこの匂いが好きだ。嗅ぐとしばらくの間浮遊感に浸れる。ラベンダーの匂い物質には、ラベンダーアルカロイドという麻薬に似た成分が含まれていると聞いている。そんな理由によるものなのかもしれない。
私が高校生の時、夏休みになると、よくひとりで富良野に出かけた。辺り一面の紫の丘陵を見る為だ。畑の中の畦道{あぜみち}をひとりで歩くのが好きだった。富良野は観光客が多い。そこは私の秘密の場所のようなもので、ほとんど観光客の来ない、穴場のようなラべンダー畑である。
その場所は、上富良野の外れにあった。
ある日歩いていると、畑の中で見え隠れする人影を発見した。
あの時の彼女は、麦藁帽子を被っていた。ラベンダーの隙間から突然現れた妖精と言ったら言い過ぎであろうか。深く帽子を被っていたので、顔の下部分--鼻と口辺りぐらいしか見えない。疲れているのか、丁度畦道の少し盛り上がった部分に腰を下ろしている。
入院先の病院から、今しがた抜け出してきたような白い肌、細い腕や脚。彼女は痩せていた。それでも、女性としてふくよかな部分は持ち合わせている。大人の女性だ。私が横目で見ているのを気付かれまいと通り過ぎようか、会釈ぐらいはしとこうか、躊躇していた。
彼女は、柔らかい風に逆らわぬように麦藁帽子を脱ぐと、
「どちらからの訪問者かしら?」
と、親しげに話しかけてきたのは彼女の方からだった。
「札幌」
「そう、本土の人かと思った」
「ホンド? 007、ジェームス…」
「それはボンド!」
「ええと、じゃあ大木…」
「オオキ? ああ、それは大木凡人」
「では、木工…」
「木工用ボンドでしょ?」
彼女は少し笑ってくれた。その笑顔は、とても年上とは思えない可愛らしさを演出させた。
「本州のこと。昔は内地って言ってたそうだけど…。おかしいでしょ?
北海道も同じ日本なのに。でも、私には遠い所よ」
「どうして?」
「君には近くても、私には遠いのよ」
17歳だった私には、子供のせいか、意味がよくわからなかったが、それは多分、彼女が大人(23~4歳ぐらいにみえた)だからなのだろうと、その時は思った。
「ラベンダー畑によく来るの? 私も時々来るの。近くよ、上富良野」
「そうなんですか」
「ラベンダーはね、匂いが強いから少し嗅ぐのがいいの。吸い込み過ぎたらだめ」
「へー、知らなかった」
他にもとりとめもない会話を交わした後で、彼女は「薬の時間」だと言って、缶のお茶で白いカプセルを飲んだ。
「何? それ。病気なんですか?」
「抗癌剤」
「え?」
「……本当は違うの。抗癌剤のプラセボ(偽薬)よ」
「プラセボ…?」
「そう、形はそっくりだけど、カプセルの中はラクトース(乳糖)。私、胆癌なんだけど、末期なのよ。だから本物の抗癌剤処方したって同じことだから、プラセボでいいみたい」
「どうしてそんなこと知ってるって…、いやそんなことよりも、どうしてそんな大事な事、僕に、初対面なのに、話してくれるんですか?」
「そうね、どうしてかしら。今まで他の誰にも話さなかったのに…。きっとこの暖かい日差しと、柔らかい風に乗ったラベンダーの香りのせいなんでしょう」
「それ、かなりキザですね」
二人は互いに笑った。笑える筈がないのに笑った。
それが二人の出会いだった。年上の女と年下の男の付き合い(こんな下賤な言い方は似合わないだが)は、そんな風にはじまったかのように思えた。
ひとしきり話した後、彼女は言った。
「じゃ私、今日はこれで」
「明日もこの畑来る?」
「うん、来るわ」
「僕も来る」
そういって、彼女はまた来た畦道を帰って行った。
私は彼女のゆっくりと歩く後ろ姿を見送った。
次の日、同じ場所で待っていたが、彼女は現れなかった。その次の日もまた次の日も行ってみたが、私は二度と彼女と会えなかった。
半年後に私は噂を聞いた。彼女はICU(集中治療室)に入り、何人もやってくる見舞い客の雑菌に感染し、息を引き取った。死因は肺炎による呼吸停止だと。
生命の終局はあっけなく、生の余韻のかけらもないという。でも、私にはあの瞬間が、何年も新鮮な記憶として残った。
あれから30年後の今、私は思う。彼女の死は殺人ではなかったのか。あるいは業務上過失による致死なのか。プラセボについては知っていない事がないくらい調べた。プラセボ効果は、本人が投与されることを知っていてはまったく効果を示さない。何らかの形で彼女は自分に投与されている事を知り得たのであろう。
医師は、もう末期だから彼女にプラセボを処方したのであろうか、もう一つの可能性は治験である。末期癌だから、新薬に対する比較の為のプラセボ投与群のデータが欲しかったのか。
いずれにしても、患者に知られるなんて、これは殺人に匹敵する行為だ。
死因が担癌ではなく肺炎だなんて、彼女も納得できないだろう。免疫をなくした彼女に「かわいそうに」なんてやって来た見舞い客よ、言ってやりたい。真の殺人者はお前らだって…。
そんなことを考えていると、また倦怠が襲ってくる。どうすることもできず、幾度もラベンダー畑の写真を見ては、思い出に耽る。
(終)
注:ラベンダーは麻薬成分を含みません。ラベンダーアルカロイドという物質も存在しません。
ラベンダー畑に死す 迫 公則 @mrsa
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