第6話・旅は、五日で終わった
スタンたちの旅は、五日で終わった。
魔獣や山賊がいるわけでもないし、文明の光が届くど真ん中だ。
少しばかりの困りごとがあっても、近くの村に寄って何枚かの硬貨があれば大体はなんとかなった。
クランの荷物はスタンが見るところ多大な抜けがいくつもあって、思わず怒鳴りつけ、げんこつを落としてしまった。
何より許せないのは、水を持っていないことだ。
確かに魔法で出した水で、大体は事足りる。
しかし、いざという時、身体中の魔力がすっかりとなくなってしまい、それでもまだ休めない状況でどうするつもりだったのか。
そんな時、自分の魔力に関係しない水を持っているのは大きな大きな助けになる。
あと食料もおかしばかりだった。スタンは再びクランにげんこつを落とした。
彼女の旅の知識は抜けが多く、一貫した教育を受けていないことがうかがわれた。
あちこちから聞きかじりを集め、必死になって自分で集めたかのような、そんな知識だ。
歩き方一つとっても、旅の歩き方ではなかった。
エルフの旅の知識は、親から子へと受け継がれる。
スタンの野営料理は、母から教わった。
季節ごとに木の実や香草を集め、乾燥させる。
それは魔法を使っていい物もあれば、絶対に使ってはいけない物もある。
今でも全てを魔法でこなせるように研究はしているが、長い長い扇・フリジアーノ家の歴史は魔法を使ってはいけない木の実に敗北し続けていた。
まぁそれでも乾かすのは長くて三日だ。それくらいなら疲労抜きも兼ねて、少し長めに宿に泊まるのにちょうどいいくらいでもある。
拾った香草や木の実を使った野営料理で客人の驚く顔を見るのが、扇・フリジアーノ一族の静かな悦びだ。
一緒に旅をして、料理を口にするたび目をまるくして驚く幼いスタンに、母はいつも大人気ないくらいに得意げな笑顔を見せてくれていた。
あれが、幸福な時間だったのだと今なら理解出来る。
それを持っていないクランを哀れむべきではない、とスタンの年老いた、年相応のしっかりした部分が小さく小さく囁く。
「なあ、ジイさん。あたしだけが戦ってたんだ」
三日目の野営で、クランは焚き火の前に座っていた。
ちいさく、自分を抱きしめるようにして膝を抱えている。
何かがほんの少しだけズレたのか、クランから敗北の臭いがした。
骨の髄まで染み込んだ、どうしようもない敗北の臭いだ。
「あいつらみんなへらへら笑って、どうせ自分が勝てるわけない。王サマになにか出来るわけないって思ってたんだ。誰一人真剣じゃなかったよ」
「……ああ」
「あたしだけが、戦ったんだ」
なにを言えばいいのか、わからなかった。
ただ聞いてやることしか出来そうにない自分が、とてつもなく情けないものに思えるのを、スタンは死ぬまで忘れないのだろうと悟ってしまった。
心安らかに眠りにつこう。そんな時、思い出してしまうひどい後悔になるのだと、悟ってしまった。
よせ、やめろという自分の声が聞こえる。
独りで何かを握りしめる少女に、大人として安っぽい同情をするべきではない。
この先、このちいさな少女の面倒をずっと見られるわけではないのだから。
それは強く、強く握りしめられている。
「なんであんなことが出来るんだろう。王サマのさじ加減一つで生き死にが決まる場所に、へらへら笑いながら立つってさ。あたしは今にして思うと……すごくこわかったよ。たくさん……たくさん準備してさ、あたしなりに作戦だって立てたんだぜ。でも、死ぬかもしれないと思ったよ。父上の剣は、すごく綺麗なんだ」
思わず漏れた父上という言葉に、本人は気付いていないようだった。
悪ぶって言う王サマという言葉より、よほど自然だとスタンには思えた。
関係ない。行きずりの仲だ。黙って馬鹿のように相槌を打っていろ。
「なにをどうしてるかなんて、あたしにはちっともわからない。でも、何が来てもぶった切るあの奇跡みたいな剣の前に、あたしはへらへら笑って立てない」
あの剣を前に、本気で戦わないなんて絶対に出来ない。
それは、スタンにも刺さる、痛い言葉だった。
ルディを王として奉り上げたエルフは、まさにスタンの年頃だった。
まさに熱狂の時代である。
最強無敵のエンシェントエルフを落とさんと、各地から腕自慢のエルフが続々と集った。
毎日、十人、百人とルディの刃に喜んで命を散らしていったのである。
集団戦の人数がいよいよ千人を超え、二千三千と数を増やしていく中に、スタンの姿もあった。
ここまで来ると、エンシェントへの殺意は尊敬と憧れが上回っていたのだ。
スタンはへらへら笑って、参加していたのだ。
運良く命こそ助かったものの、あの奇跡のような剣に、二度と挑もうだなんて思わなくなっていた。
勝てるはずがない、勝てなくて当然だ、あの人は我々とは違うエルフの王たる存在だ。
そういうとびきり明るい諦観が、静の国を生んだ。
超越者に君臨していただいた我々は、なんて幸運なのだとへらへら笑っていた。
それのどこが悪い!
他の誰にも成し得なかった偉業を、王だけが成し遂げた。
その報酬は受け取られるべきだ。
我々凡人と王は、比べることすら不敬なくらいに違う存在なのだから、彼は最も偉大なる報酬であるエルフの王権を受け取るのが当然の、最低限の権利だ。
見よ、静の国からエルフ同士の戦は絶え、すっかり平和になっているではないか。
誰にとってもいい事だけだろう。
それのどこが悪い!
大人の理屈で燃やそうとした怒りは、ちっとも長続きしてくれなかった。
名誉も道徳でも割り切れそうにない、大きなごろりとした塊だ。
小さな、取るに足らない意地だった。
それは強く、強く握りしめられているものだ。
それは誰にも触れられてはいけない弱々しいもので、誰かに許される必要もなく、誰の中にあるべきものである。
スタンは、そう思った。
クランから、負け犬の臭いだけはしてこなかった。
敗北の苦さにまみれようとも、誰かを羨み、足を引っ張って自分と同じ高さまで連れてこようとする、負け犬の臭いだけは。
熱ある腐敗の中で座り込んでいていい理由が、スタンの中には見つからなかった。
ただ一つ、彼女の平穏以外には。
だが、座り込んでいるのが、どうしても耐えられなくなってしまった。
この救いようのないくそったれが。地獄に落ちろ。
スタンは、寝る前の平穏を乱されることが、どうしても、どうしても耐えられなかったのだ。
「なあ、クラン」
「……ああ、うん。あたしにもわかってるんだ。星を落とす方がマシな無理難題だ。かしこいみなさまがたは寝て起きて、クソして飯食ったら忘れちまうような事を、真剣に考えてるあたしの方がおかしいって」
「なあ、クラン」
「あたしの頭がイカれてるって言うんだろ!?わかってるよ!勝てるわきゃねえよ、なんなんだよあいつ。炎に乗るとかそういう神業みたいな小細工じゃねえ、見えてもいない剣筋一つで差なんて分かり切ってるよ!一万人集めたって、あいつに勝てっこねえ!世界中の生き物全部集めたって、最後に立ってるのはあいつだよ!」
「なあ、クラン」
「…………やめてよ、お願いだから」
弱々しい言葉だった。
酒が入っているわけでもないくせに、べそべそめそめそと悪い酔いが回っている。
これから痛い所を突かれるのだと、そんなくだらない夢は捨てて賢く生きろと言われるのだと、大人にこれからしこたま怒られるのだと、怯える声だ。
負けが、現実が骨身に染み込んだ匂いだった。
「なあ、クラン」
だから、せめてそうではないのだと伝えたくて、スタンは待った。
膝に押し付けていたクランの顔が、ゆっくりと上がる。
涙に濡れた蒼い瞳は、熾火の中ではっとするほどに鮮やかだった。
遥かなる歴史の中で、この瞬間に確かに美が存在しているのだと確信出来る光景。
しかし、情欲は湧かず。
スタンにあるのは名誉と道徳。
それは、人が誇りと呼ぶものである。
浅ましい肉の欲では触れられない、小さな意地と呼ばれるものだ。
人が、強く強く握りしめるべきものだ。
「くだらねえ事を悩んでるなあ、おい」
クランの傷付いた表情に、心が痛んだ。
だが、笑い飛ばさねばならない。
スタンは教えてやらねばならないのだ、その小さな意地の価値を。
「あ」
「なあ、クラン。お前が悩んでるあーだこーだってのはな、つまりガキのたわごとなんだよ。つまんねー言い訳を並べて、なんてボクちゃん可哀想なのかしらって言ってるだけなんだよ」
「違う」
「いいや、そうだね。大人になれば、すっかり忘れちまう。酒飲んだ時に『ああ、なんて俺は馬鹿だったんだろう』と思い出すような、クソみたいなたわごとさ」
クランは、何かを言おうとしていた。
だけど、諦めて、ゆっくりと沈みこもうとしていた。
「お前は間違ってるんだ、クラン」
それを、スタンはどうにも許せなかった。
熱狂をもって王に辿り着くことを諦めていた自分を棚に上げて、死にたくなるくらいの恥を知りながら、精一杯必死になって格好をつけた。
そんな情けない有様でも、この誇り高い少女を、この愚かで無謀な輝きを、生温い諦観の中に沈めて窒息させてゆっくりと折らせるのは、どうにも我慢がならない。
寝る前の平穏?知ったことか!
「お前の間違いは、他人に何かを期待したことだ。お前のやるべき事は、お前がやらなくちゃいけなかったんだ」
それは、スタンが出来なかったことだ。
やらなかったことだった。
やろうとも思わなかったことだ。
とびきり強い酒が、欲しくなる。
明日のことなんて一つも考えず、この汚らわしい身体中のすべてを吐き出したくなる。
とんでもない嘘吐きの口をひっぺがして、その辺りの葉っぱでも縫い付けた方がよほどマシになるに違いない!
「当たり前だろう?子どもだって出したおもちゃは、自分で片付けなくちゃいけない。お前がわめいてる、そのくだらない重大なお悩みは、そういうことだ」
「で、でもさ」
まるで学者が重大な数式を解き明かし、だが計算間違いなのではないか、と疑うような表情を浮かべ、こちらをうかがうクランに、スタンは自信満々で心配なんてこれっぽっちもないとばかりに笑ってやった。
「格好悪いんだよ、お前は。お前がやるべきことは、お前のモンだ。それは誰かのモンじゃねえ。お前が自分で望んだことで、他人に腹を立てるのは、お門違いだ」
「あたしは……その……やっていいと思う?」
あたしはひょっとして慰められているのか?とひょっこりと首を上げたクランは、まるでおバカな犬のようだ。
スタンにすっかり騙されているクランは、この世で二番目にどうしようもない大馬鹿に違いない。
「知るか、馬鹿!」
「馬鹿って……」
「馬鹿に馬鹿と言って何が悪いんだ、この馬鹿め。自分の好きにしか生きられないエルフが、他人のツラにお伺い立てて、あーだこーだ抜かしてんじゃねえよ、馬鹿!」
「そ、そんな馬鹿馬鹿言うことねーだろ!?あたしだって真面目に色々考えてやってんだから!」
「だから馬鹿なんだよ、オメーは!……仕方ない、俺がお前にとびきりの呪文を教えてやる」
「……なんだよ、呪文って。壺なら買わねーぞ」
涙で濡れた瞳は、あっという間に蒸発したらしく、クランのぱっちりと開かれた目は好奇心に輝き始める。
笑って泣いて、ガキそのものの娘だ。
「いいか、お前が学ぶべきはいい男だ。そう、例えば俺のような」
「いい男ねえ」
格好を付けろ、とスタンは胸のうちに刻んだ。
今、この瞬間だけは恥知らずの大嘘吐きで、世界で最も偉大な馬鹿野郎ではなく、世界で最も格好いい男。それこそが、このスタンだ。
扇・スタン・フリジアーノこそが、世界一格好いい、大人だ。
とびきりタフで、ガッツがあって、恥を知る。そんな最高の男になるしかない。
今、この瞬間。
「なんか文句あんのか、この野郎。……こいつはクソみてえな奴らがいて、そいつらにああだこうだと言われて、それでも自分が正しいと思った時に使う言葉さ」
「うん」
「エスプリだ」
「……エスプリ?」
「ああ、こいつは遠い遠い国の言葉で、格好いいって意味さ」
母から教わった言葉だった。
何も継げず、ひとりぼっちのクランに、スタンが贈ってやれるただ一つのちっぽけな言葉だ。
くそったれた現実には何の役にも立たない、ただの言葉だ。
「エスプリのおもむくがままに。正しい怒りと、自分の格好良さを証明しなければならない時に使え」
だが、勇気ある言葉だ。
クソみたいな現実に飲み込まれそうな時、不名誉で不道徳な行いに巻き込まれそうになった時、恐るべき苦難に襲われた時、そして妻に愛を捧げた時。
そのすべてに、この言葉があった。
「クソみたいな何かに押し流されそうな時、こいつで自分を思い出すんだ。しっかりと、自分の足で立つ自分を。それが、格好いいってことだ」
「エスプリのおもむくがままに」
真剣に、絶対に壊してはいけない大切なものを受け取ったかのように、クランは力強く頷いた。
「ありがとう、スタン」
このどこまでも無垢な少女の笑顔に、永遠にベッドの上の平穏は失われ、自分が地獄に落ちるであろうことを確信した。
それでも、ちっぽけなプライド一つ賭けて、スタンは黙って鼻を鳴らした。
あったかもしれない、静かで穏やかな幸福な日常を、少女はもはや選ぶことはない。
嵐に向かって漕ぎ出す船乗りのように、風車を化け物だと思い込んで突撃する騎士のように、星を斬らんとする少女は高らかに世界へと名乗りを上げる。
「あたし、梔・ルディ・クラン・ハビムトは宣言する」
帽子の縁に指をかけ、沈めた視線の涙は見せず。
鮮やかなまでに清らかに、絶望的なまでに愚かしく、だがそこに何一つとして諦めはなく。
大仰にマントをひるがえし、見栄を切ったその頃に、双眸に宿った多大な怒りが、涙をすっかり蒸発させていた。
「我が友、扇・スタン・フリジアーノの名誉を汚した敵に、正しき怒りを」
風が、吹いた。
強い強い向かい風が、少女のマントを強く揺らす。
しかし、強く握られた正しき怒りと、己の立ち位置を確信した少女は、そのちいさな身体を小揺るぎもさせず。
「我がエスプリがおもむくがままに、あたしはあんたに決闘を申し込む!」
その宣言は、天上天下すべてに響けとばかりに、威風堂々と放たれた。
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