紅髪の異端審問官(2/7)

 ウオオオオオオオオオオオオオオオ――!!


 遠く離れていてもビリビリと鼓膜こまくふるわせるときの声。それを耳にした全ての人間達にき上がる感情があった。


 恐怖。


 長指族マギアスを前にしても恐れなかった兵ですら、奥から何がせまってくるのかを目視するや奥歯がカチカチと音を立て始める。魔族階級がそのまま人間が恐怖する度合いを示すわけではない。階級がどうあれ、最前線で戦う兵士達がもっとも恐れる魔族が存在していた。それがこっちに近づいてくる。


「ひ……引けええェッ!!」


 撤退てったい命令が出されると、恐怖におののく兵士達が一目散いちもくさんに自分達の領土りょうどへと走り出した。本陣へ戻れば後詰ごづめの魔法師達がいる。魔法なしではやつらに勝つことは不可能に近い。ラドカルミア王国最強の対魔組織である一の騎士団ナイツオブザワンとて、まともにやりあって勝てるかどうか……。


 ならば、欲を出さずに逃げるのが最良の選択肢せんたくしだ。もとより突発的に発生した此度こたびの戦闘、最初に攻めたわけでもなし、領地が防衛ぼうえいできた段階で人間側の勝利なのである。


 人間の兵士達が尻尾を巻いて逃亡すると、不意に何もない空間がぐにゃりとゆがむ。次の瞬間には最初とまったく変わらぬ位置に長指族マギアスの女がたたずんでいた。光の屈折率くっせつりつを魔法によって変え、姿を隠していたのである。


 人間がいなくなったことで戦場につかの間の静寂せいじゃくが満ちた。時折ときおりか弱いうめきが風に乗ってこえてくるが、それもすぐに消える。そうなると今度は腹を空かせた獣達が寄ってきてまた別種の騒々そうぞうしさがこの場を満たすだろう。人も魔族も最後は等しく獣の腹の中だ。


 戦場におとずれた刹那せつなの静けさを壊さぬよう、幾分いくぶんおさえられたいくつかの足音が指長族マギアスの女に近づいた。その足音の主こそ今しがた人間達を恐慌におとしれた張本人ちょうほんにんである。


 人型だが、人間の成人男性よりも一回り大きい。そしてその骨格的な大きさ以上に目を引く、身体の各所の盛り上がった筋肉。そのいわおのような暗緑色あんりょくしょくの上半身はしげもなく外気にさらされている。分厚い胸板むないた、上腕などもはや丸太だ。その筋肉の鎧は矢はおろか剣や槍といった白兵武器すらもはじく。表情筋すらもかたそうなその双眸そうぼうは、逃げ去る人間達をたいした感慨かんがいもなく見つめていた。


 振るう相手を失ったつい所在しょざいなさげに大地に降ろされた。もっとも、それを果たしてついと呼んでよいものか。それはただ巨大な鉄のかたまりに棒を突き刺しただけのものである。いったいどれほどの重量があるのか、置いた場所にたまたま横たわっていた小鬼族ゴブリンむくろがメシリと音を立ててつぶれた。


 やってきたその大柄おおがらの魔族は三体。そのたった三体に人間達は恐れをした。兵士達にとっては、滅多めったに戦線に出てくることのない指長族マギアス魔神族デモリスよりもよっぽどその魔族の方が恐ろしいのである。


 戦鬼族トロル。彼らこそ戦場でもっとも恐れられる魔族。戦いに生き、戦いに死ぬ戦闘種族。魔族側にとっても虎の子の戦力である。魔族側は彼らを出さざるをえないほど深くまで敵の侵攻を許してしまった、ということか。


「――ラチラサ殿、いかがいたす」


 戦鬼族トロルの一人が代表して口を開いた。地の底からひびいてくるような重低音。視線は逃げる人間に向けられたまま。


「追う必要はない。持ち場に戻れ」


御意ぎょい


 見かけだけならば自分達よりはるかに貧弱ひんじゃくそうに見える長指族マギアスの言葉に戦鬼族トロル達は素直にしたがった。元より彼らは背を向ける者を追うことをあまり好まない。向かってくる者を正々堂々力でねじせることに至上しじょうの喜びを感じるのが戦鬼族トロルという魔族だ。その精神性は魔族の中でも異質。しかしその点さえ考慮こうりょすれば自分より上位の階級の魔族の指示にはよく従うので、長指族マギアスにとっては扱いやすいこまである。


 ラチラサと呼ばれた長指族マギアスはなんとなしに今しがたまで戦鬼族トロルの武器が置かれていた地面を見やった。そこには無残むざんつぶれた小鬼族ゴブリン亡骸なきがらがある。


 思えば、今回の戦闘のきっかけは小鬼族ゴブリンの奇妙な行動だった。こいつらは武器も持たず、いったいなぜ飛び出したのか。


(人間に亡命ぼうめいしようとした……?馬鹿な)


 長指族マギアスの女、ラチラサは一瞬頭によぎった荒唐無稽こうとうむけいな仮説を一蹴いっしゅうした。いくら小鬼族ゴブリンが馬鹿でもそんなことを考えはしまい。


 それにしても最近は小鬼族ゴブリンみょうだ。どうにもやつらの戦意のような物が希薄きはくになっているような気がする。まるで人間を傷つけることに抵抗を感じているような……。その上、上位魔族の支配から逃亡するものも増えてきているとラチラサは報告を受けている。


 小鬼族ゴブリン小柄こがらで知能も低く、一匹一匹ではたいした戦力にはならない。だが、彼らの真価しんかはその繁殖はんしょく能力による数にある。いくらでも補充ほじゅうがきく雑兵ぞうひょう、たとえ弱くとも肉の壁にしてそれごと敵を魔法で吹き飛ばしたり、汚物おぶつった刃物でも持たせればそれなりに戦力にはなる。小鬼族ゴブリンの弱体化は少なからず魔族陣営の戦力低下につながるのだ。


 そしてその戦力低下の結果がこれだ。人間にこれほどまで攻め込まれて、指揮官たるラチラサまでもが戦線に出てくるはめになった。


(エディマ様に増援ぞうえん要請ようせいする……いや、聞き入れてくれるとは思えない……)


 主君の名を一瞬思い浮かべ、すぐにかぶりを振る。そもそも進展がない前線を押し上げるようにと命を受けてその側近そっきんである自分がここに送られてきたのだ。


 どうにか状況を変える必要がある。が、小鬼族ゴブリンに関しては原因が分からない上に問題が漠然ばくぜんとしすぎている。これに対処するのは困難であろう。


 それ以外で前線を押し上げるもっとも簡単は方法は、やはり戦力の拡充かくじゅう。しかしそれをどうすか。


 魔族の戦力というものは基本的に階級最上位の魔神族デモリスの支配のもと、各地に分散されている。基本的に各魔神族デモリスごとに連携れんけいはしておらず、各々おのおのが勝手に自分の領地を人間から守り、気まぐれに人間領に侵攻したりしている。彼らを彼らの意思以外で動かせるのは魔王エディマ・ロマ・フラタナスただ一人。ゆえ長指族マギアスであるラチラサが増援ぞうえんを願ったところで彼らは決して言う事を聞かないだろう。


(そもそも私一人で戦況せんきょうがどうこうなるわけがないだろう――!)


 死臭ししゅうわだかまる戦場で側近そっきんは一人毒づく。おそらく主君はそれを分かっていてラチラサをここに送り込んだのだ。そしてラチラサが懊悩おうのうする様をたのしんでいるに違いない。自分がたのしむことが全て。そのためにどれほど犠牲ぎせいが出ようが知ったことではない。たのしめれば自分の命すらないがしろにしかねない。魔王がそういう性格だと側近そっきんのラチラサが一番よく知っている。


 そしてその横暴おうぼうが許されるのは彼が魔王であるから。他の魔族に有無うむを言わせぬほどの力を持っているからだ。逆らえば、彼の気を害すれば命はない。ゆえにラチラサは少なくとも彼がたのしめるほどには足掻あがかねばならなかった。


(考えろ、この状況を打開する方法……)


 どうやって人間ども殺すか。どうやって人間を、人間……。


(……


 ふと思いいたる。もう多くの魔族がいないものとしてあつかうようになった一つの種族が存在することを。


 争いを好まず、自分達の生活をまもるために人間領に逃げたおろかな種族。すぐさま人間に根絶ねだやしにされると思われた彼らが、奇跡的きせきてきに生きびているという話は、人間領に潜伏せんぷくさせてある密偵みっていにより伝え聞いている。魔族の情報網じょうほうもうは人間が想定しているよりも深く、彼らの領域の中に食い込んでいるのだ。多くの情報を得るため、ひいては魔王がたのしむために。


(確かやつらの階級は戦鬼族トロルとほぼ同格……傘下さんかに加えれば大きな戦力強化になる、か……)


 もとより魔族領より逃げた裏切者うらぎりもの、本来なら根絶ねだやしにしたいところだが背に腹は代えられない。下位の魔族に取引を持ち掛けるのは少々しゃくだが、それなりの地位を用意すれば魔族領に戻ってくるだろう。一度こちらにさえ戻ってくればあとはいかようにも言う事を聞かせられる。


 目下もっかの問題は彼らが人間領の奥深くにいるということ。何とか人間共をかいくぐり、接触をはからねばならない。しかし彼らより下位の魔族を使いに出しても聞く耳持たないであろうことは明らか。


(私が直接行くしかないか……)


 そして魔王の側近そっきんは遠距離の飛行が可能な騎乗用きじょうようの魔物を調達ちょうたつすべく、本陣へと戻った。説得に成功したあかつきには人間共の戦陣を内側から食い破るのもまた一興いっきょうか、などと画策かくさつしつつ。


 ――運命の糸が少しずつ寄り合わさっていく。

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