宥和の勇者 ―結ばれた手と手―

深窓の才妃（7/8）

「よぉ、どこ行くんだよ」

　男の行く手を阻（はば）むように噴水（ふんすい）の陰（かげ）から現れる人影。

　月光を弾（はじ）く真紅（しんく）の髪、月夜に爛々（らんらん）と輝く獣のような瞳。修道服（しゅうどうふく）を改造（かいぞう）したような不思議な衣装。少年のような口振りだが、その声色と体型は確かに少女のもの。

　なぜ彼女がそこにいるのか、なぜ立ち塞（ふさ）がるのか。疑問（ぎもん）は尽（つ）きないが、それは男にとってはどうでもいいことだ。今は逃走することが最優先。故に男は構わず少女の方へと走った。

　少女は見たところ素手（すで）、よしんば武器を隠し持っていたとしてもさしたる脅威（きょうい）ではない。回避（かいひ）して、横をすり抜けていけばいいこと。交戦する必要すらない。

　少女の脇（わき）をすり抜けようとした瞬間、男の背筋（せすじ）に悪寒（おかん）が奔（はし）った。長年培（つちか）われてきた格闘センスが無意識に警鐘（けいしょう）を鳴らしたのだ。

　少女の身体（からだ）がぶれ、ほとんど予備動作（よびどうさ）なしでその左脚（ひだりあし）がしなった。咄嗟（とっさ）に男は両腕を交差（こうさ）させて顔面を防御、その下膊部（かはくぶ）に蹴（け）りが命中、男の身体（からだ）が宙（ちゅう）に浮（う）く。

　後方に吹っ飛ばされた男は防御した体勢（たいせい）のまま、地面を滑（すべ）った。転倒（てんとう）しなかったのは流石（さすが）のバランス感覚といったところか。だが、蹴（け）りを受けた右腕がビリビリと痺（しび）れている。まるで鉄の棒にぶっ叩かれたような衝撃（しょうげき）。もしかしたら骨に罅（ひび）が入ったかもしれない。まともに受けていれば顔面ごと首の骨を砕（くだ）かれていた。男より一回り小さい体躯（たいく）から放（はな）たれたとはとても思えない重い一撃。

　少女は蹴（け）りを放った体勢（たいせい）から半身（はんみ）に構（かま）えた。その口元には不適（ふてき）な笑み。内に秘めた闘争心（とうそうしん）を隠（かく）そうともしない。

「へぇ、やるじゃん。アムディールもなかなか奮発（ふんぱつ）したもんだぜ」

　少女の口から雇（やと）い主の名が語られたことで、雇（やと）われの暗殺者は少女を無視することを諦（あきら）めた。お喋（しゃべ）りな口は封じなければならない。何より、無視して逃げられそうにもない。

　男は腰から二本目の黒刃を引き抜いた。腰だけではない。その黒装束（くろしょうぞく）の下には様々な暗器が仕込まれている。

「シャアッ！」

　影が重心を限りなく落した低姿勢（ていしせい）で疾駆（しっく）した。その独特（どくとく）な呼気（こき）は奥歯（おくば）を一切開けずに発声しているが故（ゆえ）、彼の任務には口を開けて言葉を放す必要は皆無（かいむ）である。救い上げるような黒刃の一閃を少女が身体（からだ）の向きを変えて躱（かわ）した。刃を持った腕は放ったままに、影が左腕を地に付けてそこを基点（きてん）に身体（からだ）をぐるんと振るう。身体（からだ）全体を使った足払（あしばら）い。

　対し少女は避（さ）けるのではなく、両足を大地に突き差して踏（ふ）ん張（ば）った。その右脚（みぎあし）に男の足払（あしばら）いが迫（せま）る。

　ガツン

　異様な手ごたえ。筋肉や骨、そういった物に当たったというよりは石柱を蹴（け）ったような感覚。膝（ひざ）まで届く丈（たけ）の長いブーツの中に鉄板でも仕込んでいるというのか。いや、それよりも男一人分の体重が乗った蹴（け）りを受けて揺（ゆ）らぎもしないその異常な安定性に仕掛けた方は驚愕（きょうがく）した。足腰の鍛（きた）え方が尋常（じんじょう）ではない。

　足払（あしばら）いを止めた右脚（みぎあし）を軸（じく）に、少女の身体（からだ）が回転し放たれる鋭（するど）い左の下段蹴り（ロー）、横になった男の膝裏（ひざうら）を蹴（け）り抜く攻撃は別の脚（あし）の裏によって防御（ブロック）される。蹴（け）りを押し戻す要領（ようりょう）で男は強く足を蹴（け）った。その勢（いきお）いで少女の足元から脱出、地面を転がりつつ距離をとる。驚愕（きょうがく）していても身体（からだ）は迅速（じんそく）に対応する。どんなに予想外の事態が起きようとも、任務（にんむ）を遂行（すいこう）するために培（つちか）われた状況判断能力が身体（からだ）を動かす。

　男が立ち上がるのと同時、今度は少女が攻める。一息（ひといき）で距離を詰（つ）めた少女の繰（く）り出した掌底（しょうてい）を男がすんでのところで払う。速く、そして鋭（するど）い。間髪（かんぱつ）入れず放たれる連撃を男は全て紙一重（かみひとえ）で避（さ）ける。攻める方、守る方、どちらも並大抵（なみたいてい）の体術レベルではない。

「ツァッ！」

　焦（じ）れたのか、裂帛（れっぱく）の気合いと共に少女が大技に出る。身体（からだ）の捻（ひね）りと共にその脚（あし）が美しい円弧（えんこ）を描（えが）いた。相手の頭を狙った上段回し蹴（げ）り、まともに喰（く）らえば頭蓋（ずがい）が砕（くだ）ける必殺の一撃。防御すれば受けた腕は使い物にならなくなるだろう。

　だがどれほど威力（いりょく）の高い攻撃であっても当たらなければ意味がない。上体を下げて回避（かいひ）した男の頭髪（とうはつ）が数本宙に舞（ま）う。風が裂（さ）かれた音を間近に聴（き）きつつも男は勝利を確信した。

　黒刃の突きが夜を貫（つらぬ）く。狙いは相手の喉元（のどもと）。蹴（け）りを放った直後の体勢では回避は難しい。腕で受けられてもそれでよし、片腕を潰（つぶ）せばもはや少女に勝ち目はない。

　少女は咄嗟（とっさ）に右腕で喉（のど）を庇（かば）った。妥当（だとう）な判断。黒い切っ先が少女の腕に突き刺さる。

　ガキィン

　男は一瞬（いっしゅん）、何が起こったのか把握（はあく）できなかった。ただ、目の前で弾（はじ）け飛んだ黒刃の欠片（かけら）を呆然（ぼうぜん）と見やる。

　少女の腕に突き刺さったかに思えば刃は、その身を抉（えぐ）ることなく硬（かた）い何かに阻（はば）まれて砕（くだ）け散ったのだ。男の手の平にも異様な手応（てごた）えが伝わってきていた。まるで岩に刃物を突き立てたような硬質（こうしつ）な反発力（はんぱつりょく）。

　袖（そで）の下にも鉄板を仕込（しこ）んでいた？否（いな）、タイトな袖周（そでまわ）りにそんなゆとりはない。第一、ここに至（いた）るまでの一連の体術を身体（からだ）の各所（かくしょ）に重りをつけた状態でこの少女が行っているとは到底（とうてい）思えない。

　男に生（しょう）じた隙（すき）とも言えないような一瞬の硬直（こうちょく）に、その折（お）れた短刀を握（にぎ）る腕が掴（つか）まれた。少女が男を懐（ふところ）に引っ張り込むと同時、姿勢を低く。首回りを防御するために曲げた右腕でそのまま攻撃へと転じる。

「砕（さい）ッ！！」

　回避も、衝撃（しょうげき）を流すこともできない状態の男の鳩尾（みじおち）に強烈（きょうれつ）な肘鉄（ひじてつ）が入った。布に覆（おお）われた男の口から声にならない悲鳴と腹の中の全ての空気が吐き出される。少女の気合いと重い衝撃（インパクト）が大気を震（ふる）わせた。

　一瞬の強張（こわば）りの後、男の身体（からだ）が脱力（だつりょく）。勇者の暗殺を狙った襲撃者（しゅうげきしゃ）は白目を剥（む）いて気を失った。

　力の抜けた男を乱暴（らんぼう）に地面に放り出した少女は、上を見上げて片手を上げた。その視線の先には窓から月明かりの下で行われた立ち合いを見物していた観客（かんきゃく）がいる。

　その観客（かんきゃく）、レイとセラに背後から声がかけられた。

「終わったようですね」

　ゆったりとしたガウンに身を包（つつ）んだ貴婦人（きふじん）が廊下（ろうか）に佇（たたず）んでいた。背後には燭台（しょくだい）を持った年配（ねんぱい）の侍女（じじょ）の姿もある。燭台（しょくだい）の灯（あか）りに照らされて艶（つや）やかに金髪が煌（きら）めき、白磁（はくじ）の肌が芒（ぼう）と浮かびあがっていた。

「セルフィリア殿下（でんか）がお力添（ちからぞ）えいただいたおかげで、無事勇者を護（まも）ることができました」

　セラの感謝の言葉と共に頭（こうべ）を垂（た）れる二人の護衛（ごえい）にセルフィリアは昼間と何ら変わらない声色で言う。

「よいのです。私はただ報（しら）せただけ。寧（むし）ろ、私の屋敷にいながら手間をかけさせたことを申（もう）し訳なく思います」

　そして言葉通り申訳（もうしわけ）なさそうに目を伏（ふ）せる。

「いえ、相手はかなりの手練（てだ）れでした。発見が遅れていればどうなっていたか。本当に、ありがとうございます」

　レイはもう一度、深々（ふかぶか）と頭を下げた。

　レイとセラは襲撃者（しゅうげきしゃ）がユウの寝ている部屋に入る前からその存在を感知していた。それを可能にしたのはそれぞれのベッドの隅（すみ）に小さく描（えが）かれていた魔法式である。その魔法式は家主（やぬし）が遠隔（えんかく）で声を届けることのできる通信の魔法が組み込まれているのだ。緊急時（きんきゅうじ）はそこから指示（しじ）がなされると二人は事前に侍女（じじょ）から説明を受けていたというわけだ。

　では肝心（かんじん）の家主（やぬし）、セルフィリアは如何（いか）にして襲撃者（しゅうげきしゃ）の存在を察知（さっち）したか。そのからくりをセラは知っている。

　この屋敷の内装（ないそう）、一見ただの装飾（そうしょく）に見えるそれらが巧妙（こうみょう）に隠蔽（いんぺい）された魔法式なのだ。屋敷全体に侵入者（しんにゅうしゃ）の存在を家主（やぬし）に伝える感知の魔法がかけられているのである。ユウが屋敷に入った時に感じた奇妙な感覚の正体がそれだ。魔法的知覚の開いている者ならば自身が魔法の影響圏内（えいきょうけんない）に入ったことを察知（さっち）することができる。

　常駐（じょうちゅう）せねば意味のないこの感知の魔法、おそらくそれを維持（いじ）しているのが外の薔薇園（ばらえん）。魔力とはすなわち生命力であるという説を裏付ける証左（しょうさ）として、あらゆる生命に魔力は宿（やど）るという事がしばしばとりあげられるが、植物もまた例外ではない。中でも宿す魔力の多い品種（ひんしゅ）を集めたのが外の薔薇園（ばらえん）なのだろう。薔薇（ばら）が咲き、芳香（ほうこう）と魔力が満（み）ち、それを利用して魔法式が起動、屋敷が警備（けいび）される。

　美しくも堅牢（けんろう）なる薔薇（ばら）の城塞（じょうさい）。薔薇（ばら）が咲き誇（ほこ）る限り、〈深窓（しんそう）の才妃（さいき）〉の背後（はいご）をとることは不可能だということだ。

「――ところで、あの者は？」

　と、レイが視線を窓の外に一瞬向けつつセルフィリアに問う。

　月明かりの下でのあの戦い、襲撃者（しゅうげきしゃ）の技量（ぎりょう）は相当なものであったが少女はさらにその上をいった。遠目（とおめ）でははっきりしないが、まだ二十にも届かないであろう少女がだ。

　ただものではない。それにあの衣装（いしょう）、このラドカルミア王国の国教であるローティス教に縁（ゆかり）のある物のように見えるが……。

「彼女が勇者を狙う者がいると教えてくれたのですよ」

　こともなにげにセルフィリアが言う。それはどういうことですかとレイが聞き返そうとした瞬間、王妃（おうひ）は自身の唇（くちびる）に人差し指を当てた。

「詳（くわ）しい話は明日でも問題ないでしょう。寝る子は育つと言うでしょう？」

　セルフィリアの視線に気づいてレイとセラも首を回す。幻影の魔法が解（と）けて元の場所に戻っていたベッドの上、そこにこれだけの騒（さわ）ぎがあったにも関わらず微動（びどう）だにせずに眠りこけている勇者の姿がある。

　よっぽどそのベッドの寝心地（ねごこち）がよかったのか、今しがた命の危機にあったことなど露（つゆ）ほども気づいていないあどけない寝顔、耳を澄（す）ませば聴（き）こえてくる小さな寝息（ねいき）に護衛（ごえい）の二人は小さく嘆息（たんそく）したのだった。