深窓の才妃(6/8)

 夜のとばり薔薇園ばらえんおおう。あわい色合いの薔薇ばら花弁かべんが月明かりによって昼間とは別の顔を見せる。無粋ぶすいな人口のあかりでは見られない幻想的ではかなげな花の寝顔。巡回じゅんかいする衛兵えいへいも花達の眠りをさまたげぬよう、足音を殺して歩く。手にしたカンテラのあかりが少し申し訳ない。だが、このあかりがなければ夜の暗さと薔薇ばら芳香ほうこうに包まれてあっというまに方向感覚を失ってしまう。夜天にまたたく星の光はあまりにもはかない。


 さわさわと葉擦はずれの音がする。突然吹いた風に薔薇達ばらたち迷惑めいわくそうに身じろいだ。衛兵えいへいは少し立ち止まって、音のこえた方にあかりを向けるが、そこには黒々とした夜がわだかまっているだけだ。すぐにまた順路じゅんろに戻る。


 その夜の中にまねかれざる者がひそんでいたことには気づかずに。


 屋敷の二階、そこに用意された客室でユウは寝息ねいきを立てていた。天蓋てんがい付き、とまではいかないが一般的な水準から考えれば十二分に豪華ごうかなベッドをひとめだ。上質な綿わためられたクッションはまるで雲のよう。寝返りを打つたびにギシギシと音を立てる“勇者特区”のかたいベッドとは文字通り雲泥うんでいの差がある。そのかたいベッドですら熟睡じゅくすいしていたユウであるからして、もはやちょっとやそっとさぶったぐらいでは起きそうにない深い眠りに入っていた。


 部屋にはもう一つベッドがあり、そこでセラが眠っている。レイはとなりの別部屋に、リンシアはセルフィリアと同じ部屋、同じベッドだ。昼食時と同様、ユウと同室を希望したリンシアだが、こういった区別をセルフィリアはしっかりとつける。


 そのユウとセラの寝ている部屋の戸が音もなく開くと、廊下ろうかから黒い影がするりとその身をすべり込ませた。


 夜目がくらしいその影は家具に接触せっしょくすることなく部屋の中を横断おうだんし、迷いなく二つあるベッドのうちの一つ、廊下ろうかから見て奥にある方の側に忍び寄った。ユウの眠っているベッドである。


 安らかな寝息を立てている黒髪の少女を発見した影は、腰からその得物を引き抜いた。短刀、それも刀身に艶消つやけしの黒い塗料とりょうられている特別仕様。夜の暗さにけるその刃は闇に生きる者達が好んで使用する暗器である。


 影は黒い刃を何の躊躇ちゅうちょもなく振り下ろした。人の、ましてや少女の命をうばうことに一切の抵抗ていこうがない。狙いはその白い首筋くびすじ、気道と動脈どうみゃくを同時に切り裂けば悲鳴を上げることさえできないだろう。熟睡じゅくすいしているなら殺されたことに本人が気づくこともあるまい。明日日がのぼるまでその死が露見ろけんすることはない。


「――ッ!?」


 黒刃が空を裂いた。影は愕然がくぜんとして今起こっている現象げんしょう吐息といきらした。


 刃は確かに少女の首筋をとらえていた。動かない対象に外そうはずもない。そののどつらぬいているはずなのに手ごたえがなかった。目の前で短刀が少女ののどに食い込んでいるというのに――!


 魔法による幻影――!そう気づいた瞬間、背後から聞こえるささやくような呪文の詠唱えいしょう、反射的に影がびのいた。


顕現けんげんせよッ――!」


 バシッという何かがぜるような音が鳴って、客室が一瞬閃光に包まれた。


 光はすぐにおさまり、咄嗟とっさに腕をかざして視界をかばった影がその腕を下すと、先ほどまで影がいた空間に青白く光る雷撃をびた腕がばされていた。


 隣のベッドで寝ていたはずの魔法師の女が起き出し、影をにらんでいた。


 魔法師の女、セラは光の屈折率くっせつりつを変える魔法でユウの位置をベッドごとずらしていた。実際にユウの寝ている位置と見えている位置にはずれがあるのだ。そしてその虚像きょぞうに攻撃を仕掛しかけた影に対して、本物のユウに当たらないように極限きょくげんまで威力いりょく射程しゃていをしぼった雷撃の魔法で攻撃を仕掛しかけた。


 窓から月明かりが差し込み、影の輪郭りんかくあらわにする。


 短刀のみならず、その全身が黒の衣装に包まれていた。口元も布でおおわれ判然はんぜんとしない。肌の露出ろしゅつも少なく、分かるのは体格から成人の男だと言う事だ。その体躯たいくは細く筋肉質、極限きょくげんまでしぼり込まれている。先ほど咄嗟とっさびのいた反射神経といい、こういった荒事を生業なりわいとしている身体からだつき。


 幻影の魔法は明らかにその男が部屋に侵入しんにゅうする前にかけられていたものだ。つまり、部屋に侵入される前からセラはその襲撃者しゅうげきしゃの存在に気づいていたということになる。なぜ気付かれたかは男には分からなかったが、今はそれを考えている時間はない。


「……………」


 無言で男は黒塗くろぬりの短刀をかまえた。相手は魔法師一人、先ほどは不意を突かれたが本来護衛ごえいのいない魔法師などたいした脅威きょういではない。魔法が行使されるより、その刃が相手ののどくほうがよほど早い。


「シャッ!」


 するど呼気こきいて影がおどりかかった。目標は魔法師。黒髪の少女を始末しまつするのは邪魔者じゃまもの排除はいじょしてからでも遅くない。


 まだベッドの上の女は何の武装ぶそうもしていない。その寝間着ねまきに武器をかくしているようにも思えない。丸腰まるごし。だからこそしょうじた油断ゆだん。セラが不意ふいに背中から何かを投擲とうてきしたことで男は反射的に立ち止まってそれを短刀で斬り払った。


 鋭利えいりな刃物によって真っ二つに斬断ざんだんされた布地ぬのじ、ただの枕――


「オオーッ!」


 その一瞬の硬直こうちょくに部屋に突入する新たな人物、もう一人の勇者の護衛ごえい、レイ。


 突入のいきおいのまま、ベッドに片足かたあしを乗せてぐように振るわれた左の拳を男は上体を深くしずめることによりすんでのところで回避かいひ、続けて高所から打ち下ろすように振るわれる右の拳をけるために背後へとぶ。恐ろしく軽く、そして素早い身のこなし、男がかなりの使い手であることはもはや間違いない。


 距離をとって相対そうたいした襲撃者しゅうげきしゃと二人の護衛ごえい。武器を持っているのは襲撃者しゅうげきしゃだけだが、後から来た護衛ごえい徒手空拳としゅくうけんでもあなどれない相手だということは今の攻防こうぼうで明らかだ。


 形勢不利けいせいふり。そもそもこの護衛ごえいとやり合うけるための夜間の襲撃しゅうげきである。暗殺が失敗した以上、もはや襲撃者しゅうげきしゃに勝ち目はうすい。 


 そう判断してからの男の行動は速かった。


「――シャアッ!」


 短刀を持った腕が振るわれる。同時に窓へ向けて男が走った。


「チッ!」


 投擲とうてきされた黒刃をレイが素手で叩き落とした。ければセラに直撃ちょくげきしてしまう。無理矢理むりやり進む方向を変えられた刃がベッドに突き刺さった。


 ひび破砕音はさいおん、男は躊躇ちゅうちょなく身体からだ硝子がらすくだいて二階の窓から中庭のそらへと飛び出した。レイが追うが、もはやその手は届かない。


 男は着地と同時、両手両足で大地を強く押す。落下の衝撃しょうげきを横へ流しつつ、地面をぐるぐると転がった。そのまま何事もなくすっくと立ちあがる。強靭きょうじん身体からだ柔軟性じゅうなんせい三半規管さんはんきかん、さしものレイもそのあざやかな着地ちゃくちには舌を巻いた。


 だが、男が走り出そうとした、その刹那せつな


「よぉ、どこ行くんだよ」

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