掲げられたもの(5/6)

「あれは……」


 くまの顔面全体に赤い顔料がんりょうによって描かれた紋様もんようをセラが見とがめた。それは魔法という技術に属するものだったからだ。


 そのセラの反応だけでレイは全てをさっする。


「なるほど。熊を操って馬車をおそったわけか」


 対象に直接魔法式をき込むことで精神に干渉かんしょうする魔法。人間側では邪法じゃほうとされているたぐいの術だ。


 レイは熊の注意を引くために、ゆっくりと移動を開始した。長剣ロングソード意図的いとてきにちらつかせ、光の反射で熊の視線を誘導ゆうどうする。


「セラ、ユウを頼む」


「それは貴方あなたがお願い。私が魔法でたおすわ」


駄目だめだ」


 魔法師の提案ていあんを、熊の視線を誘導しながら騎士が否定する。


洞穴ほらあなの奥にこいつを操ってるやつがいる。お前が呪文をとなえ始めた瞬間に熊の標的ひょうてきをお前に変えるぞ」


 魔法の最大の弱点は呪文を唱えるという準備動作が必要であることである。それゆえに戦場で魔法師が単独行動することはない。常に護衛の兵士によって守られているものなのだ。


 その準備動作を省略しょうりゃくする技術も存在はするが、往々おうおうにしてリスクをともなう上に魔法の精度せいど威力いりょくが低下する。果たして生半可なまはんかな魔法であの巨体を一撃で倒すことができるかどうか。一撃で倒せなければその丸太のような腕でセラの華奢きゃしゃな首など簡単にへし折られてしまうだろう。あの巨体の突進を止めるのはさしものレイでも不可能だ。


「じゃあどうするのよ。まさか魔法なしで熊と戦う気?」


 セラは注意を引かないようにレイよりもゆっくりとユウの方へにじり寄りながら問う。ユウは突然現れた巨大な野生動物に困惑こんわくしている。それが魔法で操られているなど彼女は知るよしもないからだ。


 魔法師の問いに騎士はさも当然のように言った。


「熊程度ていど斃せんようでは一の騎士団ナイツオブザワンは名乗れないんでな」


 熊が上体を倒し、四足歩行となってレイへとびかかった。この場にいる人間の中でもっとも脅威きょういな存在はレイであると認識にんしきしたらしい。それが熊自身の意思いしなのかどうかはともかく。


 熊の注意が完全にレイに向いていると確信かくしんした瞬間しゅんかんにセラも走る。熊の進行方向と交差こうさするようにいつくばるユウの元へ。その後ろ姿を確認したレイは眼前へと迫った爪へと意識を集中した。


 ぶおんと空間ごとぎ払うような一撃を上体をらして紙一重かみひとえける。体勢を崩さないように、避ける動作は最小限に。続けて放たれる逆の腕からの二撃目もぎりぎりのところで避ける。下手へたに盾で受け止めはしない。盾をつかまれて体重をかけられればレイの膂力りょりょくを持ってしても押し倒されてしまうからだ。人間としては常人離れした筋力を持つレイも、これほどの大型の獣と筋力勝負するのは分が悪い。


 回避と同時に前へ出て熊の側面そくめんへと回り込む。その身軽さは自分よりも大柄おおがらな魔族との戦闘を想定しているゆえである。そういった強大な魔族の放つ攻撃は人の身では受け止めることが難しいからだ。それゆえに研鑽けんさんされたかわし、いなす技術。


 獣の呼吸をすぐ間近で感じながら、レイが逆手さかてに持ち替かえた長剣を勢いよく振り下ろした。その鋭い切っ先が熊の背中に突き刺さる。


「むッ」


 剣先から伝わる手ごたえにレイはすぐに剣を引き抜いて下がった。寸前すんぜんまでレイのいた空間を、痛みによって反射的に振るわれた前肢ぜんしぎ払う。明らかに傷は浅く、致命傷ちめいしょうには至らない。


 熊はその身に鎧をまとっている。毛皮の下にある皮膚ひふ分厚ぶあつ皮下脂肪ひかしぼうだ。それをつらぬき、身体からだの内部に刃を通すことは並大抵なみたいていの刃物ではできない。レイでなければ切っ先を突き刺すことすらできなかっただろう。


 その強固きょうこな守りと木々を薙ぎ倒す腕力わんりょく。それは魔法という超常の力なしでは本来人の太刀打たちうちできるようなものではないのだ。


 些細ささいな傷だが、一撃を受けた熊の様子を観察かんさつしていたレイが目を細めた。熊は痛みによる反射行動をおこなった。最初に跳びかかってきた攻撃にしろ、一挙手いっきょしゅ一投足いっとうそくを術者に操られているというわけではなさそうだ。


 糸人形マリオネットでないならば、それなりにやりようがある。


 再び襲い来る爪と牙の攻撃を後方に小刻こきざみに跳んで回避しつつ、好機こうき見計みはからう。そして大振りの一撃を避けた瞬間、ダンッと強く地面をって再びレイは前に出る。身体を熊に押し付けるかのような肉薄にくはく、視線と視線、身体と身体が交差した刹那せつな、騎士の右手がうなる。すれ違いざまに振り抜かれた右手、そこにたずさえられた盾のへりの部分がすくい上げるように熊の鼻先を打ちえる。


 グオオオオオッ!


 敏感びんかんな鼻に痛打つうだを受けて熊がひるんだ。そこには毛皮も厚い脂肪もない。痛みに鼻をかばうように両手でおおって熊がうずくまった。人間のような所作しょさ平時へいじなら微笑ほほえましく見えたかもしれない。だが次に熊が顔を上げたとき、その瞳にはありありとした怒りが浮かんでいた。


 熊から少し距離をとったレイはまた盾を前に構えた前傾姿勢ぜんけいしせいをとった。しかし長剣をにぎった左手は引きしぼるように後ろへと引く刺突しとつの構え。それはさながら放たれる寸前の弓のよう。


 今までの熊の反応によってレイは熊がどのように操られているのかを探っていた。その結果、熊はほとんど熊自身の意思によって動いていることが分かった。おそらく操られているのは敵愾心てきがいしんのみ。誰を襲うか、その矛先ほこさきだけが操られている。


 であるならば、熊の意識がしっかりと存在するのなら精神的な動揺どうようさそうことで熊の動きをある程度誘導ゆうどうすることができる。


 レイの狙い通り、痛みに怒り狂った熊はただただまっすぐにレイに突っ込んできた。大口を開け、その牙でレイを八つきすることだけを考えている。もはや術者を斃そうともレイを引き裂くまでその怒りは収まりはしまい。


 大地をきしませるその突進をレイは正面からむかつ。ぎりぎりと筋肉が軋み、長剣を持つ腕に力が溜まる。筋肉が盛り上がり、触れた瞬間に肉が内側から破裂はれつするのではないかと思ってしまうほどの力の集中。狙うは必殺、この一撃に全霊ぜんれいを込める。そして熊が剣の射程内へと足を踏み入れた瞬間――


「オオオオオ――ッ!!」


 騎士がえた。


 たくわえられた力が一気にはじけ、鋼の強弓ごうきゅうが放たれる。その切っ先は寸分すんぶんたがわず熊の口の中へと吸い込まれた。


 やいば軟口蓋なんこうがいを貫き、さらに奥へ。椎間板ついかんばんを断ち割り中の神経を切り裂き、内側から首の皮下脂肪へと刺さる。そこに加わる、熊自身の突進の力。その巨体を前へと動かす途方もない膂力がそのまま長剣を肉に押し付け、とうとうその先端が皮膚を破った。


 内側から首を貫かれた熊は目を見開いて、うめきとも言えないような空気をのどかららした。何が起こったか分からず、腕を振るうがもはや前に進むことは叶わず、その爪はむなしく虚空こくうでるにとどまった。


 脱力だつりょくした巨大な肉塊にくかいからレイが長剣を引き抜いた。剣のりに付着した血と脂肪を一振りで振り払う。


 熊をたった一人で討ち取ったというのにその騎士にそれをほこる様子はない。なぜなら、それは彼にとって当たり前のことだったから。生身の人間としてはありえざる戦闘能力。故に彼らはそう呼ばれるのだ。


 一の騎士団。対魔族の切り札と。


 ユウの小さな身体をかばうように抱きしめていたセラは、あらためてその舌を巻いた。


 その強さは決して才能だけで得られるものではあるまい。毎日毎日きもせずに型の演舞えんぶと筋力トレーニングにはげみ、数多あまたの死線を乗り越えたことでようやっと得られたものなのだろう。実際に目の当たりにしたことで人々が騎士に対して憧憬どうけい尊敬そんけいねんいだくのがよく分かる。


「――もし言葉が分かるなら、出てこい。もう逃げられないことぐらい分かるだろう」


 言葉が分かるなら、そう言ったレイだが相手が理解できるだろうと思っての呼びかけだった。魔法をあつかえるものはそのほぼ全てが高い知能を持つ。魔法というものが知識によって研鑽される技術であるからだ。故に魔法を操る魔族にはたいていの場合人間の言葉が通じる。相対あいたいする関係であるからこそ、敵の言語を理解することは情報戦を有利にする。


 レイの呼びかけに応じるように、洞穴から聞こえてくる足音。姿を現したのは一匹の小鬼族ゴブリンだった。


 だが、その姿は一見いっけん先ほどまでいた小鬼族達よりも弱々しく見えた。肌にはしわが刻まれ樹皮じゅひのようにかさついており、つまづいただけで折れてしまいそうなほどその手足は貧弱ひんじゃくで枯れ枝のようだ。加えてその貧弱な身体を支えるように地に突き立てられている杖。初めて小鬼族を見る者でもそれが歳をとった個体であると一目で分かる容姿ようしだ。


 ただ、魔族に対して多少の知識があるものならばその特異性とくいせいに気づくことができるだろう。


 通常の小鬼族はこんな外見になるまで生きることはないのである。彼らはとても短命の種族だ。寿命はせいぜい六、七年ほど。もっとも、ほとんど場合その寿命をまっとうする前に戦いの中でき果てる。


 ただし例外がある。この個体はおそらくそれなのだと分かったセラがつぶやいた。


年老いた母オールド・ゴブリン……こいつが熊を魔法で操ってたのね」

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