掲げられたもの(4/6)

 棍棒こんぼうがユウの顔面を打ちえることはなかった。


 もはや見慣みなれた薄桃色うすももいろ寸前すんぜん小鬼族ゴブリンを突き飛ばしたのだ。その痛みをともなわない体当たりが見た目以上の重量と衝撃しょうげき内包ないほうしていることをユウはよく知っている。


 砂埃すなぼこりを上げて小鬼族が地面にごろごろと転がった。まるで初めてユウとそれが邂逅かいこうしたあの時のように。


「さくらもち……」


 小鬼族を突き飛ばしたそのスライムの名をユウがつぶやく。昨日宿で留守番るすばんをさせて以降いこう、目に入ってはいたが気にしている余裕よゆうもなく意識の外へと追いやってしまっていた。


 しかしたとえユウがかまってくれなくとも、このスライムはずっとユウのそばにいた。今朝けさユウが宿を抜け出した時も、当然のように彼女の後を付いてきていたのだ。


 困惑こんわくしたのは小鬼族だった。突き飛ばされた一匹は派手はでに吹っ飛びはしたものの大きな怪我けがはない。だが、地面に座り込んだ状態のまま、突然現れた小さな魔物に目を白黒させている。


 それは彼らにとってもあり得ない光景だった。


 魔族達にとってさえ何を考えているか、どういう行動原理をしているか分かっていないスライムが明らかに人間に味方するような素振そぶりを見せている。


 このスライムはいったいなんなんだ?


 この人間はいったいなんなんだ?


 二つの疑問が小鬼族達の動きを止めた。彼らの言語が頭上を飛びい、騒然そうぜんとする場の中心にいて、ユウは遠くの方から草木をき分け走ってくる足音をいた。


「ユウーーーーッ!!」


 次いで響いた声に小鬼族達はしゃべるのをやめて一斉いっせいに声のした方向に振り向いた。


 ユウと同じように血のあと辿たどり、勇者の護衛がやってきたのだ。


 洞穴ほらあな前の広場へと進み出たレイはそこにユウがいることに一瞬安堵あんどしつつも、すぐに怒りに眉根まゆねを寄せた。地面にいつくばった状態のユウを見て、何があったのかある程度ていどさっしたのだ。


 レイから遅れること数秒、セラもそこへと辿り着く。少し息の上がった様子の彼女も小鬼族へと怒りを隠そうとしなかった。呼吸が乱れていなければすぐにでも呪文を口にしかねない。


「――説教せっきょうは後だ。今はこいつらの首を落す」


 恐ろしく無機質むきしつで冷たいその声色が小鬼族達の背筋せすじを凍らせた。その一言だけで付近一帯ふきんいったいの温度が数度下がったかのような錯覚さっかくを受ける。


 背中からスラリと抜き放たれた長剣ロングソード曇天どんてんもとにぶい輝きを放った。その輝きに今までどれほどの数の魔族が飲み込まれたのだろうか。


「や、めて……!レイ君……!まだ、ちゃんと話せてないからッ……」


 かすれ、途切とぎれがちの声。叫ぶというにはあまりに弱々しく。血こそ見える範囲はんいでは流れていないが、ひたいには脂汗あぶらあせが浮かび、時折ときおり引きったようにほほ痙攣けいれんしている。


 くわえて地面にいつくばったその体勢、ユウが負傷ふしょうしていることは明らかだった。そしてその原因が小鬼族だろうということも。


 騎士が噛みしめた奥歯おくばがギリッと音を立てた。


「――どうして、どうしてそんなになってまでこいつらをかばう!?こいつらは魔族だぞ!俺達人間の敵だ!それは昨日と今日で身をもって知ったはずだッ!」


 最初の一回ぐらいなら、魔族のことをよく知っていないということでませることもできたかもしれない。だが今は違う。言葉の通じる相手ではないと分かっていたはずだ。いや、たとえ言葉が通じたとしても話し合いにおうじるような連中ではない。


 一度武器を振るわれた相手にどうしてこうも無防備むぼうびに近寄っていける?こんな醜悪しゅうあくな化物に話し合いで和解わかいしようなどどうして考えられる?


「なぜだ……ユウッ!」


 騎士の問いかけに、勇者は答えた。


「――だって……喧嘩けんかすんのは、アカンことやろ……?」


 そう言って少女は笑った。いつものゆるんだ頬ととろんとしたまなじりで。今までレイとセラが見てきたものとまったく同じ笑顔。こんな状況にあってさえ。


 その笑顔にレイは戦慄せんりつした。この少女の愛嬌あいきょうのある笑顔に強烈きょうれつな違和感を感じる。あまりの異質いしつさに吐き気すら覚えた。


 同時に、そうか、そういうことだったのかと納得なっとくもした。


 度重たびかさなるユウの不可解で自分の命をかえりみない言動。その理由が分かった。


 隣のセラが小さく呟いたのがレイの耳に入る。彼女はそれを口にせずにはいられなかったに違いない。優しい彼女だからこそ、そう毒づかなければいられなかったに違いない。


 「――何が勇者召喚、何が世界を救う者よ。救いが必要なのは、この子じゃないの……!」


 セラは村につく以前からユウの異常性を感じていた。それをレイは考え過ぎだと一蹴いっしゅうした。だがそうではなかった。


 ユウの行動はもはや慈愛じあいなどという精神からかけ離れている。もはや狂気的きょうきてきとさえ言っていい。優しさだけでは恐怖心は消えたりしない。根本的な何かが欠けている。


 この笑顔を見て、その瞳にうつった尋常じんじょうならざる光を見て、やっとレイにも分かった。


 この少女は、ユウは、心に大きな怪我を負っている。とても深い傷だ。おそらくこの世界に来る前のもの、もはや血は全て流れ出てしまって痛みは消えてしまっている。


 この世界に来て、親も友達もいない、常識すら通用しないような場所に連れてこられて、よわい十四の少女がただの一度も涙を流していないのがその証拠しょうこだ。


「……ユウ。これは喧嘩じゃない。だからいいんだ」


 数多あまた。何十、何百もの魔族をほうむってきた騎士が歩を進めた。護るべき、勇者へ向けて。 


 小鬼族が身構えた。最初こそレイの気迫きはく委縮いしゅくした彼らだったが、多勢たぜい無勢ぶぜい、向かってくる人間は一人に対してこちらは四体だ。背後はいごのもう一人は武器を持っていない。考慮こうりょする必要はない。相手が一人なら一斉いっせいにかかればなんとかなる。


 彼らは常に複数ふくすうで行動する。魔族の種族階級カースト最下位に位置する彼らだからこそ、自分達の脆弱ぜいじゃくさをよく理解しているからだ。それを数でおぎなうということを本能が知っている。その上彼らは多産たさんで個体ごとの生存本能以上に種としての生存に重きを置く思考形態をしている。一人が犠牲ぎせいになろうとも、より大勢が助かればいい。そのためならば仲間でさえたやすく切り捨てる。一体がやられている間に他のものが敵を仕留しとめればいい。


 もっともレイとの距離が近かった一体がレイに向けて、棍棒を振り上げ猛然もうぜんと襲い掛かった。


「これは喧嘩じゃない。生きるために戦うことは悪いことじゃないんだ。そうやって俺達は命をつないできたんだ。戦わなければ、殺されるんだ」


 銀閃ぎんせんが、はしった。


 この場にいる誰一人でさえ、その剣筋けんすじを見切れた者はいなかった。斬られた小鬼族でさえ、何が起こったのか理解できなかったろう。


 そして理解する間もなく、彼の意識はその胴体と分かたれた首と共に闇の奥深くへと落ちていった。苦しむひまなどない。


 レイは盾を前に構えてやや重心を落した前傾姿勢ぜんけいしせい、長剣を持った左手はぴくりとも動かずに中空に制止している。まるでずっと前からその体勢、その位置で動かず固定されていたかのような印象を受けるが、長剣の腹のりに溜まった赤い水滴がつぅっと剣先へと流れて、今しがたの出来事がそれによってされたのだと証明している。


 なまくらな刃でも斬ることはできる。だが通常、それは切断以上にその重量でもって強引に叩っ斬るものであって、騎乗きじょう時の速度や高低差を利用する。しかし当然ながらレイは馬など乗っていない。純粋じゅんすいな肉体が生み出す膂力りょりょくのみでそれを為した。腕の筋肉だけではあるまい。大振りな刃を振るってもまったく揺らぐことのない体幹たいかんも常人をはるかにしのぐ。人間の肉体がもつ潜在能力ポテンシャルを出しきっているかのように思えるその身体能力を得るためにどれほどの歳月をついやしたのか、想像することさえできない。


 一の騎士団ナイツオブザワン。その盾の紋章もんしょうは、彼が魔法をもちいない人間の戦力としては最大最強であることを示している。


「……ああ……ああッ!」


 大地に前のめり倒れ込んだ首のない小鬼族を見て、笑みから一転、ユウの表情が悲痛ひつうゆがむ。口から言葉にならない叫びがれる。


「どうして……どうしてっ!」


 頭の怪我も忘れて呆然ぼうぜんと首を横に振る。


はアカンことやのに、そうやと分かってんのに!なんでみんな、仲良くできへんのや……!うちには……うちには分からへんよッ!!」


 みずうみでセラが魔法でスライムを焼いた時は、こうはならなかった。それはスライムが魔物であり生物と言えるのかすら分からないような外見だったからだ。


 だが小鬼族は違う。頭があり胴、手足がある。基本的な身体特徴とくちょうは人間と酷似こくじしている。だからこそ醜悪に見える。その上、言語を使って仲間とコミュニケーションをとり、間違いなく物を考える思考能力と感情を持っている。


 それが彼女の琴線きんせんに触れた。


「ユウ、こいつらは、じゃない」


 騎士がそう断じたが、錯乱さくらんした勇者には届かない。どうしてどうしてと呟き続ける。尋常じんじょうな精神状態ではない。


 小鬼族達は動くに動けなかった。本来は一匹が突撃したのを皮切かわきりに同時に雪崩なだれ込む算段さんだんだったのだが、あまりに戦闘力の差が違い過ぎた。これでは突撃したところで最初の一匹の二の舞になるだけだ。仲間が命を失ってさえすきの一つも彼らは見出すことができなかった。


 その時、洞穴ほらあなの奥から何か声が聴こえたかと思うといで地鳴じなりのようなうなり声が反響はんきょうし、響いた。


 その声を聞いて小鬼族達が我にかえった。言葉に込められた意味を理解し、我先にと逃亡を開始する。その声は彼らの言葉で逃げろと言っていたのだ。


 何かが洞穴の中から出てこようとしていた。小鬼族ではない。もっと大きな生き物。


 ユウ達は馬の死体を引きった血の跡を辿ってここまで来た。つまり馬の身体を引き摺って運べるような何かがそこにはいるということだ。馬の死体はかなりの重さである。少なくとも人間程度の膂力では舗装ほそうもされていない森の中を引き摺って進むのは難しい。つまりそれ以上の力を持つ何か。


 曇天の元にその巨体が姿を現した。


 全身を覆う赤茶けた体毛。いかつく盛り上がった両肩りょうけんから大地に降ろされた前肢ぜんしはユウの胴体並みに太い。そこから生えた爪もまた太く、頑丈がんじょうで鋭い。皮鎧程度ならば紙のように引き裂いてしまうだろう。


 ずんぐりとした体躯たいくが四足歩行から二足となって立ち上がった。その高さは人間としては長身のレイの身長よりも頭一つ分高い。不自然なほどの敵意のこもった黒瞳こくどうがレイ達を睥睨へいげいしていた。


 グアアアアアッ!


 それが地響ぢひびきさえともないそうな咆哮ほうこうを放った。まるでこの森の主は自分であると誇示こじするように。


 実際に、この森の生態系の頂点にそれは君臨くんりんしていた。人間もおいそれと手は出せず、森に入る時はそれと遭遇そうぐうしないように細心の注意を払う。はるかな昔から、そうしてきた。そうやって距離をとりつつも長い歳月を共に暮らしてきた隣人りんじんだ。


 もっとも身近で、もっとも大きな脅威きょういと言っていい。少なくともデマリ一帯では魔族や魔物以上に恐ろしいとされている存在。


 一頭の巨大なくまがそこにいた。

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