第4章『制限戦争指導論(The Conduct of War)』著:ジョン・フレデリック・チャールズ・フラー(原書房)

①概要:


 著者は、理性と政治から外れた戦争の犠牲を嘆く。戦争の目的は平和である。戦闘では、敵の破壊や勝利が追求されるが、戦争全体では、敵から降伏を引き出し、対立関係から友好関係へと転換しなければならない。


 著者に言わせれば、ナポレオン戦争、南北戦争、二つの世界大戦は、まさに理性のたがが外れた野蛮な戦争に他ならない。それらの戦争は文明的とは言い難く、部族的な戦争だと指摘する。敵戦闘力の撃滅と戦争継続能力の破壊は、戦争の解決と平和への移行をより困難にさせる。


 戦争は、政治目的に奉仕しなければならず、それは平和であるべきで、敵を滅ぼす事では決してない。戦争の動機が復讐であってはならず、それは人間の文明を部族の時代へと退行させる行いである。


 著者は、政治家の戦争指導を厳しく指弾する。もしも、政治家が戦争の性格を正しく認識していたのならば、無意味な犠牲を支払う事は無かったからだ。


②クラウゼヴィッツと絶対戦争:


 著者は、クラウゼヴィッツ主義に賛同しつつも、戦闘力の撃滅には異を唱えている。クラウゼヴィッツ少将は、戦争の理論的形態と現実的形態として、絶対戦争(無制限戦争)と限定戦争(制限戦争)を挙げたが、戦争の目的が平和であるという事を理解していないと著者は批判している。


 それ故に、政治の手段として発動された戦争が、限定戦争でなく、絶対戦争の形態を現わす。限定戦争的な戦争指導と戦争政策を採るべき場合に於いて、絶対戦争的な戦争指導と戦争政策を採るという致命的で倒錯的な錯誤、あるいは政治的な過失を犯している。


 戦争の本質と性格を正確に理解していないが故に、限定戦争がいつのまにか絶対戦争に取って代わられて、復讐と敵の絶滅という感情が、敵との講和交渉という理性を駆逐してしまっている。


 優勢な我が方が、劣勢な相手方に対して、無条件降伏を突き付ければ、それは講和交渉というよりは、単なる平和の押し売りに過ぎない。


 勝者の特権として、敗者の軍備や矜持を踏みにじる事は、一時の快楽をもたらすが、それが将来の戦争を敗者に準備させるという事を良く理解しなければならない。


 平和という戦争目的に適合しない手段による戦火の拡張は、双方による殲滅を招くだけだ。


 戦争手段が、戦争目的を呑む込む事があってはならず、飽くまでも手段を目的に従属させなければならない。


③内部戦線:


 戦線は外部だけでなく、国内にもある。内部戦線とは、対外戦争を遂行する国内社会の精神的な基盤を指す。


 戦争に於いては、敵軍の兵力と軍備だけに攻撃が指向される訳でなく、敵国の輿論だとか、少数民族だとか、様々な社会問題といった精神的基盤も攻撃目標となる。これは、言わば中世ヨーロッパ時代に於ける戦争術の復活である。


 中世ヨーロッパの君主達が、敵の国庫を払底させようと戦争を仕掛けたり、攻城戦で敵兵を寝返らせたりした時代の到来とも言える。それは、核兵器の登場と冷戦時代によって、ますます拡大した。


④対独政策:


 戦争が外部戦線だけでなく、敵の内部戦線の分断を図る事も目的とするのならば、相手方の全てを敵と定める事は、実に愚かな事だ。敵の内部戦線を分断する事によって、敵軍の士気や叛乱・クーデターを誘発しやすくなる。


 しかし、第二次世界大戦に於ける連合国の対独政策は、内部戦線の分断に失敗しているどころか、寧ろ、ドイツ国内の結束や城内平和を幇助している。


 ドイツ軍参謀本部の中には、ヒトラー政権に反感を持ち、実際に何度も暗殺未遂を繰り返していた反ヒトラー集団があったにも関わらず、連合国は、彼らを見殺しにした。


 ドイツ人の全てを敵とする政策は、ヒトラー政権に反対するエリートをして、反対が無意味である事を悟り、従って、ヒトラー政権と共に連合国と戦わざるを得ない状況に追い込まれてしまった。


 反ヒトラー政権のドイツ人エリートの集団は、何度も連合国と接触を図って、降伏の条件について交渉しようとしていたというのに、連合国はそうした努力を復讐という狂気で台無しにした。


 つまり、政治家の職務怠慢によって、これ以上の戦死者を出さずに講和ができる機会が何度も連合国に訪れたのだが、連合国の政治家はこうした成果を活用せず、自国民の棺桶を量産させたのだ。


 本来、戦死するはずではなかった大勢の軍人が、政治家の戦争指導によって、無駄死にしたという事だ。連合国は、戦争に勝利したけれども、あまりにも大きすぎる犠牲を支払った。


 しかしそもそも、ドイツの反ヒトラー政権集団を支援していれば、死体の山を築く事もなかったかもしれない。著者は、こうした政治家の戦争指導に、怒りをぶつけている。


⑤総括:


 本作は、戦争指導に着目しているという点で、政軍関係に興味がある者は、一読の価値がある。著者による共産主義に対する深い洞察と敵意も読んでいて面白い。


 しかし、半世紀以上も前に出版されたものであるからなのか、軍事史に関する描写は古臭いし、訳者によるあとがきにしても、イラク戦争が成功しつつあるという明らかに誤った認識がとても残念ではある。


 願う事ならば、冷戦後の現代の事例を集めた戦争指導について執筆して欲しいと思うが、著者が死亡している以上、それは叶わない。


 クラウゼヴィッツの戦争論についても言える事だが、現代の戦争や最新の研究成果とはそぐわない部分が多い様に思える。仕方がない側面、戦争指導という着眼点が未だに色褪せる事はないという点が、救いではあるけれども。


 将来、本作が軍事の古典として読み継がれていくかどうか、私はどうも時代に忘れ去れていくのではないかという予感がする。


 戦争論が不朽の名作となったのは、戦争の本質を鋭く描写したからに他ならない。現代でも通用する概念や原則を見出したからでもある。だが、本作にそうした不変的な概念や原則があるかというと、かなり怪しいだろう。


 著者の指摘のいくつかは、戦争の本質について捉えているが、それは他の名作で吸収できる程度のものでしかない。そうなると、やはり本作は忘却の運命にあるのかもしれない。


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