第3章『軍事力の効用(The Utility of Force : The Art of War in the Modern World)』著:ルパート・スミス(原書房)

①概要:


 著者は、戦争のパラダイムシフトが起きており、政府と軍隊がそれに対応できていない現実を指摘している。本書の冒頭と結論で宣言されている「最早、戦争は存在しない」という一言に、著者の主張が端的に表れている。


 従来の戦争観は、『工業化された国家間戦争』が中心となっているが、現在、主要国が取り組んでいる戦争・紛争の多くが『人々の間の戦争』に変化しているという現実が確かにある。


 『人々の間の戦争』という現実と『工業化された国家間戦争』という戦争観が乖離している現状があるのだ。


 国家は、未だに冷戦時代(※著者に言わせれば、「冷戦」という言葉は誤用で、正確には「対立」が相応しい。即ち、戦争状態でなく対立状態にあるのだから「戦争状態でない戦争」という矛盾を孕んでいる)の戦争観を前提とした軍隊の編制や国防省を維持しているが、最早、『人々の間の戦争』というパラダイムに変化している以上、それに対応した組織の変革が求められている。


 それにも関わらず、政府は旧態依然とした軍隊と国防省で、『人々の間の戦争』を戦っている。だからこそ、軍事大国が中小国の武装勢力に戦略的敗北(戦略目標を達成できないという事)を喫する事態に陥るのだ。


 そもそも、組織と編制は、時代の変化と目的に応じて、設置されて、新編され、廃止されなければならない。それにも関わらず、安全保障機構(国防省と軍隊)は、依然として「時代の変化」に順応せず、「目的」も曖昧としている。


 要するに、国家間戦争の減少と、低強度紛争(LIC)の急増は、国家の安全保障機構に変革を要求しているのに、国家安全保障戦略や軍事政策の最優先順位は、相変わらず古びたままだという事だ。敵=武装勢力は、国防省や国軍を保持している訳ではない。


 しかし、それにも関わらず、先進的な国家の軍隊は、軽武装の武装勢力に勝てないでいる。いや、戦闘や戦術レベルでは勝利できていても、その勝利を戦域や戦略レベルでの政治的な勝利に繋げられていない。


 最早、戦争で勝利する条件は、工業力でもなく、科学技術でもないのだ。二つの世界大戦は、まさに「工業力による戦争」であった。


 しかし、『人々の間の戦争』に於いては、工業力や科学技術は効果を上手く発揮し得ない。何故なら、明確な攻撃目標がないからだ。国家間戦争の様に、敵国の軍事基地や軍需工場といった分かりやすい攻撃目標はなく、敵兵は人々に紛れ込んで、戦闘を行い、生活を営んでいる。


 『人々の間の戦争』に於いて重要なのは、まず敵兵の姿を探すという事だ。それには、我々(味方)も人々の間に潜り込む必要がある。


 言うなれば、現代の軍隊は、情報機関や法執行機関が国内で行う防諜活動の如く活動しなければならない。


 昨今、「警察の軍隊化」や「軍隊の警察化」、あるいは社会の安全保障化といった言説が主張されているが、今後は、ますます、「軍隊と警察」「軍隊と情報機関」の境界は曖昧となって、やがて両者は融合する様になるのかもしれない。我々は、兵士と言えば、銃を持ち、軍服を着こんだ男性を思い浮かべるだろう。


 しかし、将来の兵士は、コンシールド・ウェポン(秘匿用の武器)を持ち、一般市民と同じ服装と容貌で、子供から老人まで、男性だけでなく、女性や性的少数派の人間も兵士になって、人海を泳ぐのかもしれない。


②軍隊の展開、軍事力の行使、軍事力の効用:


 軍隊と軍事力には、展開・行使・効用の三つのレベルが存在する。政治指導者が考えるべき軍事政策とは、軍事力を行使して、如何なる政治的な効果を得るのかという戦略目標(政治目的)を設定する事だ。


 戦略目標が、当該地域に軍隊を展開する事そのものに設定されているというのならば、そこには何らの効用はない。抑止は軍隊の機能と結果に過ぎないのであって、抑止が崩壊した場合に躊躇なく軍事力を行使できないのであれば、抑止でさえない。残念ながら、主要国による海外派兵の多くが、こうした軍隊の展開それ自体を主目的にしている。


 つまり、国際貢献だとか、人道支援だとかそういった耳触りの良い言葉は、政治指導者や輿論を満足させるかもしれないが、ただただ、そうした政治的な実績を得たいが為に、軍隊を展開し、危険になったら撤退するというのは、偽善以外の何物でもない。


 軍事力の効用は、戦略目標と軍事目標を設定し、軍隊を展開して、軍事力を行使する事によって得られるのであって、単に自国軍を海外に派兵する事で満足しているのならば、海外派兵をしない方が遥かにましだ。


 軍事力の行使には、二つの結果しか得られない。即ち、「人間を殺す事」と「物を破壊する事」の二つだ。政治指導者は、この二つの効果を使って、政治的な成果を生み出さなければならない。


 軍事力の効用とは、軍事力の行使によって得られる結果を用いて、戦略目標を達成するという事だ。それこそが、政治指導者が為すべき軍事政策なのであって、間違っても、軍隊の展開や軍事力の行使そのものが目的なのではない。


 しかし、およそ現代の政治家の殆どがこれを履き違えているのが現状だ。


③湾岸戦争・イラク戦争と「意思の衝突」:


 著者のルパート・スミス退役陸軍大将は、戦争とは「意思の衝突」であると喝破する。戦争が、政治指導者や軍隊の指揮官による「意思の衝突」という現象であるならば、軍事目的は、相手方の意思を攻撃しなければならない。


 物理的な攻撃目標は、敵兵であり、敵軍の装備や基地なのだが、心理的・精神的な攻撃目標は、敵の指導者や敵軍の指揮官の心理を突くべきである。


 即ち、現代の戦争では、心理戦が中核に据えられているのだ。例え、敵兵を殺し、敵軍の装備と基地を破壊したからと言って、敵の指導者が、その攻撃によって、心理的な衝撃を負わないのであれば、こちらが思う様な、政策や関係、態度を相手方に強制する事はできない。


 何が言いたいのかと言えば、軍事力の行使によって、こちらが望む効果が得られないのであれば、それは敗北という事だ。軍事力は、手段に過ぎない。敵国の政治体制を転換させて、民主化させたいと望むのならば、その戦略目標に沿って軍事力を行使しなければならないが、軍事力の行使と軍事力の効用を結合させられなければ、失敗に終わる。


 その点を踏まえると、湾岸戦争・イラク戦争に於ける有志連合軍の失敗が理解できるだろう。サダム・フセイン大統領に対して、有志連合軍は、戦略目標を強制する事ができなかった。


 有志連合軍は、圧倒的な軍事力を用いて、戦場の勝利を我が物としたが、結局、「意思の衝突」に於いては、サダム・フセイン大統領に敗北したのだ。イラク軍は、有志連合軍の攻撃によって戦争遂行能力を喪失しかけたが、それでも、湾岸戦争直後に於ける国内の治安維持と国土の掌握には、ある程度は成功しているし、イラク戦争後に於ける、イラクの民主化・安定化には至っていない。


 2019年現在でも、イラク情勢は不安定なままで、選挙が実施されて、国民の代表による政府と議会が組織されていても、政治の腐敗は相変わらずで、有志連合軍が目指した政治的成果とは程遠い。


 相手国の政権を転覆し、民主化・安定化を果たすというのならば、独裁政権に取って代わる指導者や官僚層を用意しなければならないが、有志連合軍にはそれが欠けていた。


 いや、より正確に指摘するのならば、代替の指導者や官僚はいても、独裁政権時代の腐敗と汚職を受け継ぐ人物であったのならば、結局は開戦前と何ら変わる事はない。


 その二つの戦争に於いては、政治指導者が決定すべき当然の前提条件すら、まともに為されてはいない。戦争後の具体的な計画を欠いたまま、戦争状態に突入した。


 戦略目標の達成には、単に軍事力を行使すれば良いのではなくて、関係省庁による政治力や外交力も結合させなければならない。軍事力の行使は、戦略目標を達成する上での手段の一つに過ぎず、地域を民主化・安定化するだとか、難民を定住化させるだとかいった問題は、政治力や外交力も行使する必要がある。


 要するに、政治指導者はあまりにも軍事オプションに依存し過ぎていて、自らが為すべき政治力の行使という義務を怠っている。これは、政策決定者の職務怠慢だ。戦争に於いて、軍事力は中心の手段であるが、戦略目標の達成に於いては、政治力や外交力と並ぶ手段にしか過ぎない。


 従って、政治指導者は、軍事力の行使によって得られる効用と、得られない効用を区別する必要があり、軍事以外の手段によって、軍事力の効用を最大限に活用しなければならない。


④ユーゴスラヴィア問題:


著者は、ユーゴスラヴィアの民族紛争に対する国連保護軍司令官を務めた経験を引き出しながら、現代の軍隊が抱える問題点を指摘する。


 まず、現代の軍事作戦に於いては、多国籍軍の形式を採る事が主流である事、その為に、指揮命令系統が煩雑になり、多国籍軍司令官と派兵国が二重に指揮権を保持するという問題がある事、それによって、複数の異なる諸国から派兵された1個大隊で構成される1個旅団の戦闘力は、1個大隊に分断されているという問題である。派兵部隊の単位が、そのまま戦闘力となってしまうのだ。


 多国籍軍によって、1個師団や1個旅団を編成したとしても、実際には派兵国が指揮権を握るから、多国籍軍司令官が独自に動かせる部隊は殆どなく(※場合によっては、「殆ど」でなく、「全くない」)、結果として、各派兵部隊を単位として、担当の任務や地域を割り振るはめになる。


 もしも、多国籍軍の指揮権統一が為されたとしても、次に、派兵された軍人の価値を考慮しなければならない。


 つまり、派兵国は、海外派兵を決定しておきながら、自国の軍人=国民が戦死する事を極度に嫌う。政治指導者と国内輿論は、自国の軍人が戦死する事に耐えられない。


 しかし、そもそも自国の軍人を戦死させたくないというのならば、海外派兵を決定すべきではない。それは明らかに偽善だ。それも、極大の偽善だ。


 民族浄化や虐殺を非難するというのならば、同じ国民の血を流しても平和維持活動・平和強制を行う覚悟がなければならない。その覚悟がないというのならば、戦争や紛争を非難する資格など一切ないという事を思い知るべきだ。


⑤総括:


 著者が主張する戦争のパラダイムシフトと、その分析手法には矛盾がある。クラウゼヴィッツ主義的な戦争観を批判しながらも、三位一体の戦争観を引きずっている。


 しかし、それこそが現代の戦争と軍隊の問題点を浮き上がらせてもいる。戦争のパラダイムシフトに適応できない安全保障機構の中で、著者は、何とか与えられた目的と任務の遂行の為に、組織を目的に応じて改編し、『人々の間の戦争』に順応しようと努力していた。


 そこに、現代の軍人が抱える限界が見て取れる。政治手段として戦争を遂行する現代の国家に対して、文化や宗教の枠内で戦争を遂行する武装勢力と「意思の衝突」を繰り広げる為には、シビリアン・コントロール(政治統制)が逆機能に陥っているのではないか。そのつけを、現代の軍人が背負わされているのではないか。


 正直に言って、私は、本作を読み進めていく中で、政治家や官僚、そして無邪気で無知な国民に対して、怒りを覚えた。著者は、その矛盾の犠牲者なのではないか。政治家・官僚・国民が無責任な決定と言動を繰り返すこの世の中で、まともな精神を持つ軍人は、その真面目さ故に、民主政のスケープゴートになっている。


 ボスニアの虐殺が発生した当時、国際社会というやつは、国連保護軍の無力を激しく批判した。しかし、そもそも、その様な事態を招いたのは、まさに国際社会の怠惰によるものだ。


 民族紛争・民族浄化を批判しながらも、自国の将兵が戦死する事を拒否する身勝手な輿論が、虐殺を幇助したのだ。勿論、人間は死ぬ事に対する恐怖を持っているし、その感情自体は非難される理由はない。


 しかし、海外派兵をするという事は、軍隊を展開するという事で、それは軍事力を行使する覚悟が伴わなければ、何の効果もない。ユーゴスラヴィアの民族勢力は、国連保護軍と国際社会(その背後にある派兵国の国内輿論)が、自国軍の戦死を酷く嫌う事を正確に見抜いていた。


 だからこそ、虐殺という手段を採っても、軍事的に制裁されないという確信があった。著者は、NATOによる空爆を通して、民族勢力の指導者に対して、「意思の衝突」を仕掛けたが、結局は無力だった。


 著者は、紛争や虐殺を止める為に、何度も軍隊の展開から、軍事力の行使という段階に移行しようとするが、その度に、派兵国の政治介入が入り、実効性のある軍事行動が妨害されるという有り様だ。


 エドワード・ルトワック博士による著名な論文があるけれども、彼が主張する様に、軍事介入は、紛争や対立状態を長期化・固定化させるだけで、最後まで責任を持つ覚悟がないのならば、安易に軍事介入すべきでない。


 紛争の当事者同士による徹底的な戦争による他には、平和は訪れないというのは、本書を読み通しながら噛み締めた。



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