私のものは私のもの。それはこの世に爆誕したときから決まっていることである。
「う…すいま…せん…はい…まだです……」
苦しそうな呻き声に、私は目を覚ました。
またである。
社畜は夢の中でも仕事をしているらしい。ご苦労なことである。
だがこの私の眠りを妨げるのはけしからん。静かに仕事しろ。
ベッドの上でうなされている社畜は布団を握りしめて苦悶の表情を浮かべていた。
ここ最近帰りが日付が変わった時間帯になり、社畜の疲労はピークに。
帰ってくると私に抱きついてはそのまま寝落ちることも少なくない。
だがしかし私はそこで寝かせてやるほど優しい猫様ではない。私に餌を与えるまでがお前の仕事だ。忘れるんじゃない。
いいか社畜よ、私の餌を忘れるな。私の餌は最優先である。ていうか帰ってくるのが遅くなるなら事前に餌を置いてから出社しろ。ついでに猫トイレ掃除をして、それが終わってから眠れ。
うーん、うーんとうなされる社畜は苦しそうに涙を流していた。
静かに寝ろ、うるさいと社畜に猫キックをかましたいところではあるが、私にだって慈悲の心はある。
なんとかその衝動を抑えた。体を起こして軽く伸びをすると、ベッドに飛び乗る。
そして社畜の顔の横にそっと寝そべった。
「…ん…ポンちゃん…? …ポンちゃん…」
気配に気づいた社畜が目を覚ましたが、半分寝ている状態みたいだ。うわ言のように私の名を口にすると、私の美しい毛並みに顔を埋めて今度は安らかに寝息を立て始めた。
全く手のかかる社畜である。
私を崇め奉らねばならないところを、慈悲をくれているのだ。ありがたく思うことだな。
社畜は会社員として勤めている。職種は詳しく知らないが、下請けという身分らしい。その下請けという存在はお上の無茶難題を聞き入れ、その生命を削って遂行するという…なんとも命知らずの集まり。
猫様からしてみたら、お上に楯突いて一揆を起こせばいいと思うのに、黙って言うことを聞いているという。……社会がそうして成り立ってしまっているから、羽根をもがれた社畜たちは足掻けないのだという。
社畜はいつも「辞めたいなー」と口にしながらも仕事を変えない。
忙しくて転職活動が出来ないのもある。上司は嫌だけど、仕事や同僚は嫌いじゃないらしい。新しい環境に移るのも勇気がいるし、次の環境が更に良いとは限らないから前に進めずにいるみたいだ。
人間とは面倒くさい生き物だ。
まぁ、お前が潰れて動けなくならない内であれば好きにしたらいい。
だけど限界がきたら全て放り出せ。心配するな、私は貧乏暮らしには慣れている。多少なら安物の餌で我慢してやろう。
一からやり直して、給料が低い仕事になったとしても、生命や尊厳を汚されなければもうけもん。健康に生きている者が勝ちなのだ。
社会的な地位というものは人間が勝手に作ったもの。猫である私には一切関係ない。
お前が転職して一からやり直すにしても、私には何も関係ないのだ。変わらない私の奴隷のままだ。
だからどんな立場になろうとお前は私に貢ぎ続ける運命なのだよ、社畜よ。
■□■
「山下さん、猫を買うのはいいけど、ちゃんと避妊手術しなさいよ! あんた帰りが遅いみたいだけど、猫ちゃんの健康管理はしっかりね!!」
日曜日、惰眠を貪っていた社畜の元へ襲来したのはこの古びたアパートの真のボス、大家のオバチャンである。
猫を飼い始めたことを注意しに来たらしい。
私は真のボスに挨拶すべく、社畜の前に出てきてお行儀よくおすわりすると、「にゃ~ん」と愛想よくひと鳴きした。
ボスには媚びを売る、これはどの動物でも当然の習性である。
私が登場したことに大家のオバチャンは目を丸くし、その瞳をうるうるとさせた。
「お、大家さん!? どうしたんですか!?」
それには社畜もびっくりしていた。もしかして猫アレルギー…? と思っていると、大家さんは付けていたエプロンで顔を拭いながら、「飼っていた猫が先月亡くなったのだ」と涙ながらに語っていた。
オバチャンはしゃがむと、私を慣れた手付きで撫で始めた。私は大人しくそれを受け入れてあげた。
後ろで「あれ、ポンちゃん…俺に対する態度と違いすぎない?」と文句を言っているが無視だ。
社畜、お前は奴隷の分際で猫様に意見を申せるとでも思っているのか? 控えよ。控えおろう。
「かわいいねぇ、人懐っこくて、それに綺麗な子だ…名前は?」
「あ、ポン子です」
「フシャーッ」
「痛い! ポンちゃん痛いよ!」
やっぱりその名が気に入らん! 今からでもいい、改名しろ! シュヴァルツやノワールにしろ!
動物病院で「山下ポン子」と呼ばれるなんざダサくて母猫に顔向けできんわ!
「そうだわ、亡くなった猫のものだけど、未開封の餌と猫トイレの砂が余っているからあんたにあげるわ」
「いいんですか!?」
「いいのよ、消費税上がったから出費も大きいでしょ?」
社畜とオバチャンが消費税について文句を言っていた。人間たちは【税金】なるものが恐ろしくてたまらないらしい。
「助かります、ありがとうございます。ペットの餌は10%なんですよねー…ペットは贅沢品という扱いなんですかね」
「新聞は8%なのにね、どうかしてるわ。せめて生活用品は勘弁してほしいわよね」
そういえば…消費税が上がるからといって社畜はトイレの砂や餌、おやつを駆け込み購入していたな……だが、消費税が上がったからと言って、私は遠慮してやらんぞ。そんなの人間どもの都合だろうが。
おやつは欠かさず貢げ。それがお前の任務、そして使命だ。
その日から私は時折大家のオバチャンと交流することが増えた。オバチャンはアパート経営しながら高齢の母を介護しているそうだ。
オバチャンは大変だろうにいつも気丈に振る舞っている。とても優しい人だ。認知症気味のお婆ちゃんは私を亡くなった猫と勘違いして別の名前で呼び、可愛がってくる。
私が現れたお蔭で、お婆ちゃんの認知症の症状が少しだけ落ち着いたそうだ。
私かて鬼ではない。お年寄りには優しくするぞ。それにおやつくれるし、社畜のいない部屋は正直つまらんしな。
大家のオバチャンの部屋の前には広い庭がある。私はその日もお婆ちゃんとそこで日向ぼっこをしていた。
空は青空が広がり、どこからか穏やかな風がそよいでくる。庭に植えられた草木が音を立てて鳴り渡る。
私は耳をピコピコ動かしながらその音を楽しんでいた。
穏やかな時間、そんな時であった。
目の前にある一般道路と住宅敷地を隔てる塀。その塀の上を黒い何かが横切ったのだ。
「…ンニィィィー…」
「……」
突如として現れたのは、顔に傷をつけた目付きの悪い灰色の猫。奴は私に威嚇するようにして鳴いてきた。
この辺に野良猫がいるのか。私と同じ立場だった野良猫が……私は立ち上がると、いつでも飛びかかれるように構えた。
一触即発の雰囲気であった。私と灰色猫は睨み合い、そして……
「ポンちゃん、おやつあげようね。お母さんポンちゃんにあげてね」
オバチャンが袋からおやつを取り出すとお婆ちゃんに手渡していた。私はそれに意識が向いて、灰色の猫から目をそらしてしまったのだ。
──シュバッと風を切る音を立てて、私の横を横切った影はお婆ちゃんの手から私のおやつを奪い去っていった。
正に、電光石火の速度である。
「ン…ナァァァー!?」
野生の頃の勘が鈍っていたのだろうか。私は反応が遅れてしまった。
灰色猫はこれ見よがしに私のおやつをガツガツ貪っているではないか。
「キシャーッ!」
奪い返そうと飛びついたが、もう跡形もなくおやつは消え去っていた。
灰色猫は軽々と跳び上がると塀の上に登り、上から私を見下してきた。
この私を、見下してきたのだ。
まるで「家猫風情が野良である俺様に対抗できるとでも?」と小馬鹿にされた気がした。
プッツン来た私は、灰色猫を懲らしめるべく、地面を強く蹴り飛ばすと、灰色猫に飛びかかったのである。
シマ争いならぬ、おやつ争い。
私は一歩も引けなかった。
私のおやつは私のもの。他の誰のものでもないからである…! 私の焼きカツオをよくも!!
この灰色猫! 許すまじ!!
これは後に語り継がれる、飼い猫vs野良猫の内戦であった。
「大家さんに聞かされたときはびっくりしたよ! 喧嘩はダメだよポンちゃん!」
帰ってきた社畜に注意されたが、知るもんか。悪いのはあの灰色猫である。
あいつ、図々しくもオバチャンからさらに餌をもらっていたんだ。貰うならそれ相応の礼儀を見せるってものなのに偉そうに……
ペロペロと手で顔を洗っていると、社畜が「全くもう…」と呆れた声を漏らしていた。
「それにしてもポンちゃんやっと健康的な体重になったね。もうそろそろおやつの回数は減らしていいかな。大家さんにも言わなきゃ」
私は動かしていた手を止めて社畜の顔を見上げた。
…なん…だと…?
「体重を増やすために高カロリーの餌とおやつをあげていたけど、もう大丈夫そうだから、通常のものに戻そうね」
私は震えた。
おやつの回数が減る…? 今までの美味しかった餌が…グレードダウンするだと…?
お前、それ……なにそれ……
「来週は避妊手術だし、その時獣医さんにも報告しなきゃだね」
「フシャーッ!」
「ぶぇっ、なに!?」
耐えきれなくなった私は社畜の顔に飛び蹴りをかました。
社畜は頬を抑えて戸惑っている様子。あいも変わらず察しの悪い社畜だこと!
「フギャー! ミギャー!」
「イタタタ…! ポンちゃん、抜ける、髪の毛抜けるから!!」
ふざけるな社畜、お前私の奴隷の分際で何たる暴虐!!
お前なんか、お前なんかこうだ!
気の済むまで、思う存分社畜を制裁してやった。
社畜お前、本気で髪のコシがないぞ。
大家のオバチャンのほうが生き生きした髪の毛をお持ちだ。お前本気で髪の毛がやばくなるから改善したほうがいい。
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