誰も知らないミズカ
ドクターシーケルはニコルの元を訪ねた。会えるかどうか不安ではあったが、彼は社会的信用もあったし、何よりニコルはシーケルの来訪に興味を持った。
「お前はいつかの医者じゃないか。息災であったか。」
応接室にはニコルとシーケル、兵士が二名端の方に立っている。
「命を助けて頂き、妃殿下には感謝してもしきれません。」
恭しく頭を垂れたシーケルに、ニコルは頭を上げるよう言った。
「それで、何の用なんだ?」
「・・・」シーケルは兵士たちの方をチラリと見る。「妃殿下と二人で話しとうございます。」
兵士たちは心配そうにニコルを見つめる。
「構わぬよ。このようなか細い男に私をどうすることも出来ぬだろう。」
「ありがとうございます。」と、シーケル。
兵士たちは部屋を出て行った。ニコルとシーケルは二人になる。
「まあ座ろう。一体何事なのだ。」二人は椅子に腰かけた。
「妃殿下、これはどうか極秘でお願いしたい。」
「聞いてみなければ分からぬよ。」
「結論から言います。」シーケルは深呼吸して言った。
「リューデン王の病気は、治すことが出来ます。」
ニコルは驚愕し、座ったばかりだというのに再び立ち上がった。口を手で覆ってシーケルを見つめている。
「これをご覧ください。」シーケルはテーブルの上に何通もの手紙を並べた。
送り主は「フローラ」と書かれている。しかしこれはニコルの見慣れた筆跡、明らかにミズカの書いたものであった。
「私がミズカ王女と出会ったのは、二年前のことです。既にリューデン王国とガリア帝国は冷戦状態にありました。」シーケルは話始めた。
毎年ガリア帝国では医学会が開かれる。その年も、ガリアと国交のあるいくつかの国々の学者や医師たちが集まった。自分たちの研究発表を行うためだ。シーケルはガリア帝国をを代表する医師であるからして、この医学会の実行委員長を務めていた。
常連の中にはシンのドクターホアンも含まれている。彼女は周辺国で唯一の女性医師であり、その優秀さは学者たちにも一目置かれている。
シーケルとホアンは長年親しくしていた。
彼女とは良きライバルであり、数少ない友人であった。
「僕はその日もドクターホアンの発表を心待ちにしていたのです。」
ホアンが到着したと聞いてシーケルは真っ先に玄関先まで迎えに行った。今回の来訪を楽しみにしているようにとホアンより事前に連絡があったためだ。このようなことは滅多にない。満面の笑みを浮かべながら階段を降りると、馬車から女性が降りて来るのが見えた。シーケルは嬉々としてそちらへ向かう。
だが、到着したはずのホアンを見てシーケルは先ほどまでの笑顔を失った。
ホアンは顔の周りをターバンでしっかりと巻き、マスクまで着けているではないか。それは単に下手な変装だった。シーケルは言葉を失って立ち尽くす。ホアンはそんなシーケルを見て、久しぶりね、などと発言した。高すぎる声は言うまでもなく別人だ。シーケルは呆然と立ち尽くすのみだった。
そして周りの医師たちもヒソヒソと話始める。あれがドクターホアン? 何故顔を隠している?
ホアンは女性にしては身長が高い方だが、目の前の女は厚底の靴を履いてそれをごまかしている。スカートの裾から厚底靴がチラチラと見え隠れした。
しかしその怪しげな女があまりに堂々と会場に向かうので、誰も彼女を制止しなかった。それに、ここで騒ぎを起こして学会が中止になれば今日までの努力が無駄になる。皆今日のために何日も徹夜して準備して来たのだ。余計なトラブルは避けるべきだ。
ホアンから「楽しみにしているように」と言われたことも気に掛かる。
その不思議な女はまず最初にドクターホアンであると名乗り、研究内容はシンで千年前に流行した奇病「氷病」であった。
氷病の患者は少ないが、リューデン王が苦しめられていることは周知の事実だ。だが抗体さえ持っていれば感染することは無い上に、現在では滅多に見られないことから資料は少なく、研究する者は居なかった。
「とにかくその女性の発表は素晴らしいものでした。彼女が誰なのか、ドクターホアンはどうしたのかなどということは、その場にいる全員の頭から消え去るほどでした。」
後にシーケルはホアンに会うためシン地方まで出向く。その不思議な女が誰なのか問い詰めるためだ。
ホアンは辺りに人が居ないことを十分確認してから、その女性はリューデン王国のミズカ王女であると言った。
「ミズカ王女ですって!」シーケルは仰け反る。
「しっ、大きな声を出さないでシーケル。本当よ。手紙は検閲があるかもしれないでしょう。先に伝える手段が無かったの。驚かせて悪かったわ。」
「シン地方はリューデン王国と未だに繋がりがあるのですか? これがお上に知られたら大変なことになりますよ。」
「分かっているわ。だからこれは絶対に漏れてはならない。シン王国が健在だったころ、リューデン王族とは親交が深い者が数多く居た。私もその一人よ。」
「ガリア帝国の支配も完全では無かったということですね。」
ホアンは頷いた。そしてシーケルに、氷病の研究に興味が無いかと尋ねた。ミズカはリューデン王国で一人、氷病の研究を行っているが、片田舎で出来ることには限界がある。ガリア帝国の誇る設備や資料を自由に利用できるシーケルの手助けがあれば、その研究は格段に進むだろうということなのだ。
シーケルは氷病の研究にも興味を持ったが、それ以上に、あれほど優秀な学者との共同研究に心奪われた。そして喜んで手伝いたいと返事をしたのだ。
「それから、僕とミズカ王女は手紙でやりとりをすることになりました。彼女はフローラという名で、シンを通してガリアの僕のところに手紙を送っていたのです。」
ニコルはミズカが外国へ手紙を送っていたことを思い出した。文通をしていると説明していたが、あの宛先はこの男だったのか。ニコルは全てを理解する。
「私はミズカ様亡き後も一人で研究を続けました。そしてついに、リューデン王の氷病を治す方法へとたどり着いたのです。」
ニコルは頭を押さえながら大きく息を吐く。シーケルに、会ったこともないドクターホアンに、ミズカに、全ての者に感謝した。
「妃殿下のお許しを頂ければ、今後はリューデン王の元で治療を行いたいと考えております。」
「ああ・・・ああ、医者よ・・・本当に父の病気は・・・!」
「お許しいただけますか、妃殿下。」
「ああ・・・もちろんだ。そうだな、リューデン城に連絡をして今すぐお前の部屋を用意しよう。」
「ありがとうございます。ですが一つだけ気がかりなことがございます。」
「なんだ! 何でも言ってくれ!」
「リューデン王がお戻りになることを、皇帝陛下がお許しになるでしょうか。」
「!」その疑問は最もだとニコルは思った。
ガリア帝国がリューデン王国を併合した時、リューデン王のことには特に触れられることはなかった。リューデン王は動くことはおろか、一切の意思表示をすることが出来ない。だからこそ放っておいても問題無いと、ガリア皇帝は考えているのだろう。
しかしリューデン王が起き上がればどうだろう。「王は二人要らない」ということになる可能性が高い。
「せっかく治療した患者が皇帝陛下の手に掛かるのは望ましくありません。回復後の経過観察も必要ですし、あまり遠くにご移動願うのも難しいでしょう。」
「そうだな・・・。返事を待ってくれ。方法を考えなければ。」
こうしてニコルとシーケルは秘密の約束を結び、シーケルはガリア城を後にした。
ニコルはコンラッドの部屋へと向かうことにした。クレム帝国との戦闘が終わってからというもの、コンラッドと顔を合わせることは殆ど無くなっていた。ニコルにとっては彼とは会う理由が特に無い、それだけに過ぎないのだが、周囲から見ればやはり形ばかりの夫婦ということで心配の種ではあった。
遠慮がちに扉を叩く音がする。コンラッドは立ち上がって扉を開けた。先の戦闘で崩壊した個所の資料を確認していたところである。慣れない机仕事に疲れが出ていた。
「ニコル!」コンラッドは思わず声を上げる。ニコルが部屋に来ることなどこれまで一度も無かったのだ。ニコルは意を決して言った。
「殿下、相談がある。あなたにしか出来ない相談だ。どうか聞いて欲しい。」
コンラッドは目頭が熱くなった。ニコルが俺に頼み事だと! あんなに俺を避けていたニコルが! なんという進歩だろう。以前までの彼女であればどんな困りごとも自分で解決しようとしたはずだ。そのニコルがわざわざ部屋を訪ね、こうして俺に相談している。
コンラッドは驚きのあまり自分が黙り込んでしまっていることに気付き、慌ててニコルを部屋に案内した。
「どんな相談ごとだって聞くに決まっているじゃないか! さあ入って。どうしたんだ? なんだかそわそわしているじゃないか。お茶を入れるよ。」
「いえ、殿下自らお茶など・・・」
「俺の趣味なんだ。皆には笑われるが、俺の入れたお茶は最高なんだよ。まあ座ってくれ。」
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