第451話 妊娠フィーバーに沸いていたら、いつの間にか穂月のソフトボール部にコーチが来てました

 遠足だという弟にお弁当を作り、とても感謝された記憶も少しずつ薄れつつあったある日。


 太陽の残り香が漂うリビングが普段以上に騒がしく、穂月が様子を見に来ると、母親が叔母に抱き着いていた。


 それ自体はいつものことなのだが、とにかく皆が嬉しそうだった。おかげで穂月も自然と笑顔になり、輪の中に乱入する。


「菜月ちゃんがどうかしたのー?」


 中心にいた叔母を見つめながら尋ねれば、母親はさらに笑みを深くした。

「なっちーが妊娠したんだよ」

「おー」

 さすがに中学生ともなれば妊娠の意味くらいは知っている。母親も穂月が幼い頃に弟を身籠った。


「おめでとうー」


「ありがとう、穂月」


 いつになくニコニコの叔母の隣で、彼女の夫は照れながらも恐縮しきりだ。祖父や父親に肩を叩かれては、嬉しそうに頷いている。


「それにしてもなっちーってば、本当にお姉ちゃんが大好きなんだから」


「急にどうしたの? 悪いものでも食べた? 気持ち悪いわ」


「酷いっ」


 ガーンと頭を抱えたあとで、母親が先ほどのにまにまの理由を告げる。


「だってなっちーが妊娠したのって、私が春也を授かった時と同い年でしょ。そんなところまでお姉ちゃんの真似しなくていいのに、うふっ」


「……気持ち悪いと言ったのは訂正するわ。

 ウザくて信じられないほど気持ち悪いわ」


「酷くなってる!?」


「でも……不安は少し薄れたわね。はづ姉にはあれこれ言っていたけれど、初めての妊娠というのはとても緊張するのね」


 胸に手を当て、ふうと息を吐く叔母。すぐに母親が肩に手を回し、抱いた頭をいい子いい子する。


「私だって大丈夫だったんだから、なっちーもきっと大丈夫だよ」


「そうね……ありがとう」


 やや躊躇いがちではあったものの、叔母も母親の背中にゆっくりと手を回した。


   *


 別段隠すことでもないので、翌日の学校で叔母が妊娠をしたと伝えると、友人たちは揃って喜んでくれた。


「夏の大会で好成績を叩き出して、菜月ちゃんのお祝いにするしかないわね」


 とりわけ気合を入れているのは朱華だ。3年生にとっては最後の大会であり、穂月にとっても彼女と一緒に挑める中学生で1度限りの大会になる。


「春だって東北大会まで行けたんだ。きっちり勝ち進んで全国の舞台で暴れてやろうぜ」


 歯を剥いて陽向が吠える。なんやかんや言いながら朱華を慕っているだけに、なんとしても有終の美を飾らせてあげたいのだろう。


「去年まではちょっと選手層が薄かったけど、今はほっちゃんたちがいるからな。機は熟したってやつだ」


「はわわ、まーたんが難しい言葉を使ったの。大会の日に雪が降ってくる可能性があるから、皆で防寒具を用意するの」


「どうしてゆーちゃんはビビリのくせに毒舌なんだ……」


「ちゃんと人を見てぶちかましてるの。心配ご無用なの」


「言われてみれば初対面の人と話す時は、大抵わたくしの背中に隠れておりますわね……」


 思い出すように言ったところで、練習用のユニフォーム姿の凛が首を傾げる。


「普段はほっちゃんさんを頼りにしているのに、どうしてその時ばかりはわたくしなのでしょう」


「単純なの。乱闘になったらほっちゃんに迷惑をかけられないの」


「えっ……わたくし、盾代わりにされていたんですの……」


「もっとも頼りになるのぞちゃんは、ここぞという場面以外は常にガス切れを起こしてるの。万が一の事態にゆーちゃんを……というか皆を守れるのはりんりんしかいないの。ノブレスオブリージュなの」


「――っ! その通りですわ! 弱き民草を守るのは貴族の責務ですわ。どんどんわたくしを頼ってくださいませ。おーほっほっ」


「だから……りんりんは貴族でもお嬢様でもないだろ……」


 悠里と凛の会話を聞いていた陽向が、疲れたように肩を落とした。


「ほらほら、いつまでもお喋りしてないで練習を始めるわよ」


 朱華が手を叩くと部員がグラウンドに散らばり、そのままノックが行われる。


「……ごめんね、あんまり役に立てなくて」


 ボールを朱華に手渡しながら、一人だけジャージの芽衣が表情を曇らせる。顧問という立場でありながら、知識も経験も不足しているため満足な指導ができないのを少し前から気にしているみたいだった。


 そのたびに朱華は今みたいに笑顔で否定し、顧問でいてくれるだけでもありがたいとお礼を言っていた。


   *


 嬉しいことは続くものなのか、今夜も高木家のリビングは笑い声に満ちていた。


 叔母の妊娠発覚から少しして、今度はその友人の茉優や愛花も子供を授かったと報告に訪れたのだ。


「妊娠って移るんだねー、なんだか風邪みたい。春也も気を付けるんだよ」


「そうなのか。夏の大会も近いし、手洗いうがいをしっかりしとこう」


「うーん……こういう場合は母親として褒めた方がいいのかな」


「阿呆なことを言ってないで訂正しなさい。間違った知識が定着してしまったら、目も当てられないわよ」


 片手で目を覆い、軽く頭を振ったあと、叔母が妊娠は感染するものではないと教えてくれた。


「けど確証はなくても、幸せを分けることはできるんじゃねえか?」


 葉月から連絡を貰うなり、お祝いだと駆け込んできた希の母親が鼻の下を指で擦りながら頬を緩めた。


「アタシらの時もそうだったけど、幾ら同じ年に出産できるようにって願っても、そうそう上手くは運ばねえだろ」


「確かにね」


 相槌を打ったのは菜月らを、本物の妹のように日頃から可愛がっている好美だ。彼女もまたこの場で嬉しそうにしている愛花や茉優のお祝いに来てくれていた。


「私もはづ姉にあれこれ言ってた手前、少しだけ気まずいわね」


「アハハ、でも仲間がいるのは心強いよ。それが仲の良い友達ならなおさらね」


「ええ、まさに今、強く実感しているところだわ」


 自らの姉とだけではなく、菜月は友人らとも笑い合う。


 その間にも祖母が蒸した野菜や鶏胸肉のチャーシューなど、さっぱりとしていながらも栄養と体力のつきそうなメニューを運んでくる。


「穂月もご飯を食べてしまいなさい。明日は朝練もあるんでしょう?」


「うんっ」


 食卓について弟と一緒に白米を頬張っていると、無言で食べさせてと催促する娘を放置した実希子がビールの入ったグラス片手に隣に座った。


「夏は勝てそうか?」


「うーん……よくわかんない。

 でもあーちゃんやまーたんは絶対に勝つって言ってる」


「まあ、去年小学生とはいえ全国制覇した主力メンバーが加入してるからな……ってそういや、その時の監督だった柚はずいぶんと大人しいな。こういう時は妊娠したなっちーたちに裏切り者って絡むのが定番だろ」


「……実希子ちゃんは私をなんだと思ってるのかしら」


「聞きたいか?」


「やめておくわ」


「でも穏やかな表情をしてるよね」


 葉月が会話に加わると、途端に希の母親が目を光らせる。


「だよな。アタシが思うに、きっと彼氏ができたんだぜ」


「あっ……」


 赤面して黙り込む柚。その反応だけで十分だった。


「マジかよ、ついに柚にも春が来たのか」


「そういう言い方はやめてよ……それに……」


「それに?」


「ううん、何でもないわ」


 余計に気になったらしい実希子が畳みかけるように質問するも、最後まで柚は彼氏の有無についてはっきりとは答えなかった。


   *


「はーっはっは! やってるかお前ら」


 豪快な笑い声とともに、突如として姿を現した人物に部員たち――とりわけ希が顔を顰めた。


「……ほっちゃん、警察に動物園からゴリラが脱走中だと連絡して」


「だから、妙なとこでのなっちーリスペクトはいらないんだよ!」


「でも、どうしてのぞちゃんママがここにいるの?」


 穂月が顔を傾けると、実希子の隣に芽衣が進み出た。


「私が柚先生に相談して、実希子さんを紹介してもらいました。夏の大会までコーチを務めてもらおうと思います」


 練習を見てもらうだけでなく、芽衣もまた希の母親からソフトボールについて指導を受けるらしい。


「結構前にこの学校でコーチしたこともある。大船に乗ったつもりで……とは言えないが、きっちり鍛えてやるよ」


 実希子がノッカーを務め、朱華も守備練習に混じる。投手の時はFPになるとはいえ、穂月がマウンドに立てば代わりに遊撃へ入ることになるのだ。


「穂月、そこまで基本を忠実に守らなくてもいい」


「おー?」


「柚の奴がきっちり教えてくれたんだろうが、基本ができてるなら、あとは自分の守りやすいようにしてみろ。とはいっても、穂月ほど技術がない奴は下手に恰好つけないで、基本に乗っ取った守備をしろ。あくまでも基礎ができてる場合に限った話だ。間違えるなよ」


 穂月にしろ朱華にしろ、根底にあるのは小学校時代の練習だ。実希子の指導はそれを壊すのではなく、上手く発展させようとする。


「凛は感覚だけで打ち過ぎだ。もっと球種やコースを読め! 地区や県ではそれでよくても、全国に行ったら率が落ちちまうぞ!」


「わかりましたわ!」


「陽向もだ! 強く打つだけじゃなくて、あえてセーフティバントしてみたりして、相手の守備位置を前にさせるとか工夫させろ。そうすりゃヒットの確率も上がる」


「よっしゃ!」


 これまでにはなかった活発な指導に、部全体が盛り上がる。


「やっぱりコーチを頼んで正解でした」


「先生も感心してる場合じゃねえぞ。どうせなら一緒に練習に参加して、皆がどんな風に体を動かしてんのか体験してみろ」


「は、はいっ」


「あとは……お願いだから、誰かウチの娘を起こしてくれ……」


 母親の頑張りなど目に入らないと言わんばかりに、希は今日もベンチですやすやとお昼寝をしていた。

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