第394話 宏和の応援

「おー、今日はよく晴れたなあ」


「うん、絶好の観戦日和だねっ」


 額に手を当て空を見上げる実希子に、葉月は笑顔で同意した。

 地上に近く見える入道雲を押しのけるように輝く太陽は夏らしく暑いが、お出掛けするにはもってこいの天気だ。


 今日は二軍戦ではあるが、地元――県中央ではあるが――でプロ野球の試合が開催されることになっていた。


 片方のチームの先発は葉月たちも良く知る選手で、応援のためにぞろぞろと大勢で球場に来たのである。


「しっかし、今年は空梅雨もいいとこだったよな」


「ほとんど雨が降らなかったみたいね。豪雨の被害が出なかったのは喜ばしいことだけれど、その分、水不足に悩まされる地方がありそうだわ」


 次に会話に応じたのは、葉月の妹の菜月だった。

 今日はわざわざ有休を取って、彼氏の真ともども帰省している。

 葉月たちと少し離れた場所には、春道ら保護者の姿も見える。


「菜月ちゃん、仕事は順調?」


「順調といえば順調です」


 好美に問われた菜月は、少しだけ険しい顔になる。


「国の意向もあって単純に女性幹部を増やしたかっただけみたいなので、時期的に恵まれていただけで、私の実力が評価されたわけでないのは腹立たしいですが」


 着実にエリート街道を歩んでいる菜月は菜月で悩みが絶えないのか、仕事の話になるとため息が多くなる。


「まあ、いいじゃねえか。将来、ムーンリーフに役立てるための能力を鍛えてると思えばよ」


「……その言い方だと、私が地元に帰るのが規定事項になっているのだけれど」


「え? 帰ってくんだろ?」


 微塵も疑ってなかった実希子は、即座に頷かれなかった事実に、逆に不思議そうにする。


 額に人差し指を当てて、また長いため息をつく菜月。


「あはは、出世したなっちーが、町のパン屋さんに転職というのは難しいんじゃないかな」


「そうよ、菜月ちゃんを困らせては駄目よ」


 葉月と好美に言われ、引き下がる実希子。その表情はとても残念そうだ。


「でも、茉優はなっちーと一緒にお店がやりたいなぁ」


 前々から今日はムーンリーフは休みと決まっていたため、当たり前だが茉優もこの場にいる。


「……先のことはどうなるかわからないけれど、

 それもまた一つの人生かもしれないわね」


 菜月が言うと、茉優は嬉しそうに頷いた。


   *


 試合前の練習が終わり、ユニフォーム姿の宏和が真っ新なマウンドに立つ。


「宏和の奴、意外と似合ってんじゃねえか」


 ケラケラと笑いながら、スマホで後輩の雄姿を撮影する実希子。

 彼女を筆頭に、葉月たちは子供たちと熱中症にならないよう気を付けながらの観戦モードに入っている。


 一方で菜月たち陣営は独特な緊張感に包まれていた。

 原因は菜月の隣で祈るように手を合わせている一人の女性だ。


「愛花ちゃん、顔色があまり良くないわね」


 こっそりと様子を窺っていた好美が小さな声で呟く。


「きっと宏和君が心配なんだね」


「そういや、今年もあんま成績は良くないんだっけか」


 去年が散々な成績で終わった宏和は、大卒社会人出身として残された時間が少ないのをわかっており、並々ならぬ覚悟で今年に懸けていた。


 最初は中継ぎから始まったが、不平不満を言わずに全力で投げ抜き、なんとか二軍ではあるが先発ローテーションに入った。


 しかし懸命に投げても打ち込まれる状況は続き、昨年よりは改善しているものの、防御率は4点代という、一軍には到底呼ばれない成績に終始していた。


「このままだと来年はないかもって、なっちーも心配してたよ」


 心が握り締められるような不安に、反射的に葉月は胸の前で手を組む。

 重くなりがちな雰囲気を吹き飛ばしたのは、やはり実希子だ。


「先のことを考えたって仕方ねえんだ。

 おい、宏和! 腑抜けたピッチングすんじゃねえぞ!」


 堂々とヤジ同然の声援を送る。

 グラウンド全体に響くような大声に周囲の視線が集まり、菜月あたりは早速恥ずかしがって他人のふりを決め込む。


「ハッ、ちょっとはマシなら面構えになってるじゃないか」


「うん。宏和君、気負いはないみたいだね」


 マウンド上から実希子を見て、宏和はしっかりと頷いた。


 足を組んだ実希子が得意げに笑い、

 心が解放されたように葉月も表情を明るくする。


   *


 宏和が相手打者を三振に取るたび、観客席から拍手が起こる。

 地元出身なだけあって、周囲の視線も温かい。


「球場の雰囲気が、宏和君を後押ししてくれてるのかな」


 葉月の呟きが風に乗って聞こえたらしく、今だ力が入りまくった状態で手を組んでいる愛花が「はいっ!」と大きな声で返事をした。


 味方打線が点を取り、あとはこの五回を抑えれば宏和に勝利投手の権利が発生する。もし勝利投手になれば、かなり久しぶりなはずだ。


「宏和さん……!」


 泣きそうな愛花の声に葉月がグラウンドへ視線を戻せば、相手打者が二塁まで到達しようとしていた。


 続く打者には四球を与えてしまい、四番打者の前に二人のランナーを背負う。


「ここで一発が出りゃ逆転。しかも相手は去年甲子園で活躍した有望株かよ」


 実希子が軽く舌打ちする。

 よくスポーツニュースでも昨夏に名前が出ていたため、葉月もよく覚えていた。


 いわゆるトッププロスペクト選手であり、プロ一年目ながらに二軍でもそこそこの結果を残し、夏には一軍も短期間だが経験している。


 最初から戦力になるのを期待されていた宏和とは違い、若さも時間もある。


「でも抑えれば、その分だけ宏和君の名前も売れるんじゃないかしら」


 好美の言葉ももっともで、投げる宏和自身もそれをわかっているのか、マウンド上で一瞬だけ不敵な笑みを浮かべたようにも見えた。


「宏和さんっ」


 愛妻が名前を呼ぶ声が耳に入ったかどうかはわからないが、宏和は歯を喰いしばって腕を全力で振った。


 負けじとスイングする相手打者。


 鈍い音がグラウンドに木霊し、勢いを失った打球が二塁手の正面に飛ぶ。


「やったあ!」


 葉月が喜ぶのと同時に、実希子が「いよっしゃ!」と自分の事のように興奮して拳を突き上げた。


   *


「宏和さん、お疲れ様でした」


 試合後に食事をする宏和に合流し、全員で近くのファミレスのチェーン店に入った。田舎県とはいえ、さすがに中央は葉月たちの住む北部とは違って店の数もビルの高さも違った。


 もっとも東京などに比べると、その県中央の賑わいぶりも閑散としているレベルに入ってしまうのだが。


 試合に無事勝利したのもあって、宏和に烏龍茶の入ったグラスを渡す愛花の表情も明るい。


「六回無失点か。上々の結果じゃねえか。この調子で実績を積み上げていけば、一軍に呼ばれる日も近いかもな」


「無失点には抑えたが、なんとかだからな。この結果じゃ、さすがに一軍に登録される材料にはならんだろ」


「おいおい、えらい弱気じゃねえか」


「現実を見てるだけだ。実希子さんと違ってな」


「ハハッ、宏和も言うようになったな」


 バシバシと実希子に背中を叩かれ、嫌そうに宏和が顔をしかめる。

 すぐに妹が動き出したので、大はしゃぎしそうな親友の相手は任せ、葉月は何度も安堵の溜息をついている愛花の隣に移動した。


「愛花ちゃんもお疲れ様」


「あっ、ありがとうございます」


 宏和と同じ烏龍茶の入ったグラスを両手で持ちながら、愛花は柔らかな笑みを返した。


「私が試合をしたわけではないんですけどね」


「でも、見てるだけってのも疲れるでしょ」


「はい……」


 競技が違ったりしても選手として試合に出た経験があれば、やきもきしながら観戦するよりも、自分でプレイする方が楽だと感じる人間も多い。


 そのうちの一人が葉月なので、観客席やテレビの前で応援するしかない愛花の気持ちはよくわかるつもりだった。


「ですが、それも含めて宏和さんの妻である私の仕事だと思いますから」


「そっか。フフ、愛花ちゃんはすっかり野球選手の奥さんだね」


「はいっ!」


 先ほどよりも、ずっと元気な返事だった。


   *


 その後も宏和は二軍であっても先発の座を守り続けた。


 劇的に成績改善とはいかなかったものの、防御率も3点代に良化し、残念ながらも一軍では消化試合を残すのみになった秋に昇格の声がかかるのではないかというところまでいった。


 しかし結局はより若い選手が優先され、宏和の出番はなかった。


 その話を菜月から聞いた葉月は、夕食の席で家族と話題を共有しながら、改めてプロの世界は厳しいと実感する。


「若手主体の秋のリーグ戦にも参加できるみたいだし、来年には繋がったんだ。悲観する必要はないだろ」


 意識した明るい声で父親の春道に言われ、葉月も素直に同意する。


「一切声がかからなかった俺からすれば、二軍であってもプロで投げられるだけ凄いと思うけどな」


 心底羨ましそうにするのは、青春のほぼすべてを野球に注いできた和也だった。

 子供を慰めるように、葉月はよしよしと夫の頭を撫でる。


「和也君は高木家のエースなんだから、プロに行かれてたら大損害だったよ」


「ありがとう、葉月」


 仲睦まじくじゃれ合う娘夫婦を、両親が温かい目で見守る。


「わっ!」


「穂月?」


 驚いた声を上げた葉月の腕の隙間から、にょっこりと出て来た可愛らしい頭。

 自分も混ざるとばかりに葉月と和也の間に入り込んだ穂月が笑顔の花を咲かせる。


「一緒に観戦はしたが、穂月はあまり野球には興味を示さなかったな」


 少しだけ残念そうに春道が漏らした。


「仕方ないよ。私はパパと一緒に観てたから興味を持っただけだし、なっちーは野球というよりも、私たちの試合を見てソフトボールに興味を持っただけだからね」


「でも、柔らかいゴムボールでキャッチボールするくらいなら教えてもいいかもな」


 春道と同じ野球好きの和也がそんなことを言い出した。

 もっとも本命は穂月よりも、リビングの簡易ベッドで船を漕いでいる長男みたいだったが。


「そうだね。今度皆でお出かけした時にでも遊んでみよっか」


 遊びという単語に真っ先に反応したのは当然穂月だった。


 葉月の膝の上に陣取ると、昼間の試合中に実希子が見せたような拳の突き上げを披露し、元気に「あいだほっ」と叫んだ。

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