第395話 温泉旅行とお正月
頭に響くくらいうるさかった蝉の声もすっかり聞こえなくなった朝。
大きく伸びをしながら深呼吸をする葉月は、湿気の少なくなった空気に満面の笑みを浮かべる。
「すっかり秋だねえ」
残暑もどこかへ通り過ぎた日中は爽やかの一言で、そろそろ紅葉も見頃を迎える。
「そんなにしみじみ言って、どうした」
駐車場で車に荷物を詰め込み終えた実希子が、
からかいながらトランクを締める。
「なんだかホッとしちゃって」
へへへ、と葉月は頭を掻く。
「その気持ちはわかるわ」
実希子よりも早く、同意の声を飛ばしたのは好美だった。
「歳をとるたびに夏が辛くなるのよね。
おまけに今年は残暑も厳し――いや、長かったもの」
「おいおい、オバハンくさいこと言ってんなよ」
「36歳はもう十分におばさんだわ。実希子ちゃんも含めてね」
「ハハッ、そりゃそうだ。もうすぐ二回目の高校卒業ができる歳だからな」
「年齢の話はやめましょ……」
「あ、尚ちゃん、おはよう」
葉月の挨拶を返しつつ、げんなりとした表情で実希子と向き合うのは、近所の自宅から徒歩で高木家までやってきた尚だ。
朝からウキウキした様子の朱華と、仲良く手を繋いでいる様子が微笑ましい。
「誕生日が来て喜ぶのは子供くらいよ」
「そうか? アタシは今でも嬉しいけどな」
「実希子ちゃんは女を捨ててるもの」
「ふざけんな! アタシはまだまだ女盛りだ! なあ?」
振り向いた実希子が同意を求めたのは、長男を抱く夫の智之だった。
いまだに実希子にラブラブの智之は、人前だろうと躊躇なく首を縦に振る。
「実希子さんは素敵な女性で、僕には勿体ないくらいです。いつも甘えさせてもらってるんですが、たまに甘えてくる時なんてもう――」
「――あああ、もういいっ! そこでストップだ!」
「ちょっとちょっと、ここからがいいとこなんじゃない」
ニヤケ顔の尚が実希子の口を塞ぐも、身体能力はいまだに現役じみている実希子に簡単に振り解かれる。
「アタシを話題にするのはやめろ! ああ、くそっ、柚はまだ来ないのかよ!」
先ほどまで調子に乗っていたとは思えない、実希子の泣きそうな声が高くて青い空にぐんぐんと呑み込まれていった。
*
全員の休日を合わせ、紅葉のシーズンを狙った温泉旅行。
前々からずっと企画していたのもあって、宿の予約も移動経路も準備万端だ。
移動人数が多いので、いつものミニバンではなく、今回はマイクロバスをレンタルした。運転するのは8t限定解除をした中型免許を持つ実希子だ。
彼女が疲れた場合には、同じ免許を持つ和也が交代する。
二人とも仕事で配送を担当しているので、早々に限定解除をしていた。
和也は教習所に通って技能講習を受けるという着実な方法を選んだが、実希子は長々と講習なんぞ受けてられるかと運転免許試験場に乗り込み、一般的な合格率が20~30%と言われる一発試験をあっさり初回で合格した。
必要になれば大型も取得すると実希子は言っていたが、今のところムーンリーフでそこまで積載量の大きなトラックを使う予定はないので、和也ともども中型免許の限定解除をしたあとは、話もなく止まっている。
「疲れたら、いつでも代わるからな」
「ハッ! 誰に言ってんだよ!」
基本的に車の運転が好きな実希子は、最初は和也がハンドルを握ろうとしたのを無理やりどかせ、自分が運転席に座ってしまった。
その分だけ子供たちの世話は葉月任せになるが、相変わらず長女の希は車窓から流れる風景には目もくれず、一人後部座席で夢の世界に旅立っている。すぐ傍では穂月と朱華が窓から風景を指差して、きゃいきゃいとはしゃいでいる。
今年の春から小学校に入学していた朱華は受け答えもよりはっきりとしてきて、一緒に出掛ける時はこれまで以上に年下組の面倒を見てくれる。
男の子組も来年には3歳になるので、すっかり走り回れるようになっているが、マイクロバスの車内で好き勝手に暴れさせると怪我をしかねないので、春也は葉月の、晋悟は尚の膝の上にいる。
まだまだお母さんに甘えてくれる年頃なので、楽しそうに車道を走る他の車を指差しては、絵本などで覚えた知識を披露してくれようとする姿にほっこりする。
赤信号で止まった際にその様子をバックミラーで確認した実希子は微笑ましそうな表情をするものの、自分の子供たちに視線が止まるとその笑みを引き攣らせる。
「希は相変わらず寝っぱなしだし、智希は何やってんだ」
しっかりと姉の隣を確保した弟は、母親の声にも反応せず、厳しい表情で周囲の様子を窺っている。
「……もしかしたら、お姉ちゃんの睡眠を守ろうとしてるのかな」
なんとなく思いついた理由を葉月が呟くと、実希子は盛大にため息をついた。
「何でアタシの子供は一風変わった性格ばっかなんだ」
「そりゃ、母親が変わってるからでしょ」
「おい、仲町、少し運転を変わってくれ。尚をしめてくる」
「待て、もう信号代わるから落ち着け!」
子供たちに負けないくらい、大人も車内でガヤガヤするほど、全員が社員旅行でもある今回の温泉旅行を楽しみにしていた。
*
皆で秋の紅葉を楽しみ、のんびりと温泉に浸かり、一年の疲れも癒したら、すぐに雪の降る冬となる。
凍えるような寒さの夜に、耳に馴染んでいた虫たちの声はもう聞こえず、室内で動く暖房の音だけがやたらと響く。
どことなく寂しさを感じても、朝が来れば太陽の光を浴びて元気に目を覚ます。
「あけましておめでとうございますっ」
特に今日、新年最初の一日にお年玉というお小遣いを貰える子供なら猶更だ。
いつもより笑顔を輝かせている愛娘に、アニメキャラクターが描かれたポチ袋を手渡す。
「パパにもご挨拶するんだよ」
「あいっ!」
元気に手を上げた穂月は、ポチ袋を大事そうに片手で握ったまま、洗面所から出て来たばかりの和也に新年の挨拶をする。
「今年も無事に正月を迎えられたな」
「ええ、私もホッとしてるわ」
隣り合って座る春道と和葉が、にこやかに会話を交わす。
年を取っても仲の良さが一向に減らない両親は、この前の温泉旅行でもバスの後部座席で皆と楽しみながらも二人の時間を楽しんでいた。
「春也も、あけましておめでとう」
「めでとー」
今年の夏がくれば3歳になる春也も、少しずつではあるが会話も成立するようになってきた。
元気に走り回るのは穂月以上で、一人ぼっちになっても泣かないことから、3歳になって自室を与えても、あまり寂しがらないかもしれない。
それはそれで頼もしいが、ほんの少し寂しくなる母親の葉月だった。
*
「おめでとさーん」
新年を迎えた高木家に一番乗りでやってくるのは、もちろん実希子である。
すでにお酒を呑んでいるらしく、赤く染まった顔を上機嫌に歪めている。
「穂月もおめでとさん」
すぐに駆け寄って挨拶してきた穂月の頭を優しく撫で、夫で父親の智之の脇腹をつついてお年玉を渡させる。
イベントがあると率先して前に出たがる性格の実希子だが、意外と夫の顔を立てる一面を持つ。
この後に来る予定になっている好美は、そんな実希子を「昔から乙女だもの」と葉月にはよくわからない評し方をしていた。
尚たち家族に加え、すぐに好美や柚もやってくる。
「宏和君も来てくれたんだね」
「あの実家にいても愛花が気疲れするだけですしね。
菜月にも会いたいでしょうし」
一歩後ろをついて歩いていた愛花がそう紹介され、照れ臭そうに笑った。
帰省中の菜月もすぐにリビングから顔を出し、友人と再会を喜び合う。
玄関でのやり取りが聞こえていたのか、リビングに案内するなり、すでにできあがっている実希子が宏和に絡みだす。
「おい、宏和。お前、葉月に対する態度がアタシの時と違いすぎないか」
「しっかりした人間とそうでない人間とで対応を変えるのは当たり前だろ」
「そりゃ、そうか――って待てコラ」
実希子にヘッドロックをかまされた宏和は、そのまま酒の席に付き合わされる。
残った愛花は菜月が自分の近くに座らせる。
新婚の茉優もいるので、すぐに話が弾み始めた。
子供たちも年齢が近いので輪になって遊びだす。
全員をまとめるのは、もちろん朱華だ。
希だけはすぐに横になろうとするが、皆でカルタをしたい穂月がすぐに揺すって起こす。今日は眠れそうもないと判断すれば、あまり乗り気ではなさそうだが希も遊びに参加する。
「フフ、今年のお正月も賑やかで嬉しいな」
どこを見ても笑顔と会話が飛び交う空間に、だらしないくらいに葉月の頬が下がる。家を建てた時に夢見ていた光景が、今まさにピークを迎えている。そんな感じがした。
「葉月もこっちに来いよ。宏和のプロ野球裏話を一緒に聞こうぜ」
「そんなもんあるか。
二軍の選手なんて大抵が泥に塗れて練習してばっかなんだよ」
「だったら、さっさと一軍に上がれよ」
「言われなくても、今年こそ上がってやるよ!」
節制しているらしく、酒の代わりにほうじ茶を喉に流し込んで、猛々しく宏和が宣言した。
大きな声だったので全員に聞こえていて、室内に拍手が木霊する。
「一軍に上がったら、皆で応援に行くね」
その時を楽しみにしながら葉月が言うと、任せてくれとばかりに宏和は力強く頷いた。
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