第390話 宏和のプロ生活一年目

 秋晴れの爽やかな一日。


 涼しい風に黒髪を揺らされる菜月は、

 そっと手で押さえながらグラウンドを見下ろす。


 ユニフォームを着た男たちが、

 野次混じりの声援の中で懸命に白球を追いかける。


「あ……」


 菜月の隣に座る友人の戸高愛花が、呻きにも似た悲しみの声を零す。


 乾いた音が響き、木製のバットに弾き返された白球が、無情にも外野フェンスを越えていく。


 幼少から見知っている顔が、マウンドで項垂れる。


 ホームランを打たれたのは、現在投手で二軍の公式戦に参加中の宏和だった。


「やっぱ……プロって甘くないよな」


 呟いたのは涼子。関東で実業団に入り、野球とソフトボールの違いはあれど宏和同様に白球を追いかける生活をしている。


 その隣には同じく関東で就職した明美も悲痛な顔で座っている。

 さらには茉優や恭介、あとは真の姿もある。


 今日は全員で休みを合わせて、二軍戦で先発する宏和の応援に来た。


 だが結果は初回こそ三者凡退に抑えたものの、二回は五安打を集中され三失点。さらにはこの回、四球も絡み、さらに三失点を喫した。


 ベンチから投手コーチがマウンドへやってくる。


「……交代か」


 同時に監督もベンチから出たのを見て、誰かが小さく漏らした。


 二回途中六失点。


 それが今日の宏和の成績だった。


   *


「悪かったな。せっかく応援に来てもらったのに」


 二軍の試合は、一軍と違って大半が日中に行われる。

 試合後に菜月たちと合流した宏和は、近くのファミレスで自嘲した。


「気にしないでください。こんな日もありますよ」


 昨年末に籍を入れたばかりの愛花が懸命にフォローする。


「こんな日ばかりだけどな。防御率も二桁近いし」


 一気に場がシンとしたのを受けて、宏和が強引に明るい声を出す。


「おいおい、ここは笑うとこだぞ。

 ……って、俺が言っても笑えないか。悪いな」


「宏和は謝りすぎよ」


 このままでは重苦しい空気に全員が潰れかねない。

 そう判断した菜月はすぐに口を開く。


 こんな状況で、

 面と向かって宏和に何か言えるのは菜月だけだという自覚もあった。


「プロから本指名を受けただけで凄いし、二軍とはいえプロのマウンドで投げられることも十分に凄いのよ。そこまで届かずに野球を諦める人だって大勢いるんだから。それこそはづ姉の旦那さんとかね」


「……わかってるよ。でもな……いや、よそう。せっかく愛花とも会えたんだ。少しは楽しい話をしないとな」


「そんな……私は宏和さんの妻です。苦しいことがあれば何でも吐き出してください。しっかりと受け止めて見せます」


「おお、妻の鑑だね」


 空気を変える転換点だと察したのか、ここぞとばかりに涼子が茶化す。

 周囲が見えていない人間なら、ここで「そんな気分じゃない」と怒り出すところだが、幸いにして宏和はそんな性格はしていなかった。


「当たり前だろ。俺が選んだんだぞ」


「うわ、嫁自慢が始まったよ」


「ならあたしは涼子ちゃんの自慢をするわね」


「なんだ二人はやっぱりそういう関係だったのか」


「やっぱりって何だよ! ボクはノーマルだ!」


 少しだけ明るくなった雰囲気に押され、皆が笑顔で軽食を取る。


「そういや、恭介は茉優と結婚するんだったな」


「はい……ようやく……」


 しみじみと頷く恭介。

 恭介からは大量に愛情を送り続けていたが、傍目からは茉優が受け入れつつも、必要な分以外はのらりくらりと躱しているように見えた。


 この中でもっとも付き合いの長い菜月だけは、一番の親友が喜んでいるのはわかっていたのだが。


「皆、結婚してるし、そんなものなのかなぁって」


 相変わらずふわふわとした茉優の口調に、僅かに残っていた緊張感も消えていく。


 昔から人の輪に入るのは苦手にしているが、決して空気を読めない子ではない。

 むしろ敏感に体感できるからこそ、あれやこれやとグループから見捨てられないように気とお金を遣って泥沼に嵌まりかけていたのが小学生時代の茉優だ。


「そんな軽い感じで結婚を決めてもいいのか」


「いいよぉ」


 宏和と茉優のやりとりに、なんとなく恭介がショックを受けていそうなので、親友として菜月が補助に回る。


「前から茉優は沢君が好きだものね」


「うんっ」


 嬉しそうに頷く茉優を見て、恭介も胸を撫で下ろす。


「茉優はもう少し、自分の気持ちを沢君に伝えた方がいいわね」


「気持ち?」


「そもそも茉優はどうして沢君と一緒にいるの?」


「好きだからぁ」


 どうしてそんな当たり前のことを聞くのかと言いたげに、

 茉優は愛らしい顔を傾げる。


 人のことは言えないが恋愛事に疎い茉優の気持ちを華麗に引き出し、これでこの場における菜月の役目は終わりかと思いきや、変わらぬ笑顔で最後に茉優が小さな爆弾を落とす。


「なっちーのことも大好きだよぉ」


 恭介は好きで、菜月は大好き。


 本人が明確な差をつけているかどうかは不明だが、大きなため息を堪える菜月の近くで恭介が苦笑を顔に張り付けた。


   *


「しっかし、わかってたけどプロは甘くないよな」


 後頭部で手を組み、ファミレスのソファに宏和が背をもたれさせる。

 シーズンもほぼ終わりのこの時期になっても、一年を通して宏和は一度も一軍に呼ばれなかった。


 二軍成績が惨憺たるものなので、当然ではあるのだが。


「アマチュアとプロの違いを肌で感じられただけでも、

 一年目としては収穫でしょう」


「な、菜月の言う通りですっ」


 夫のやる気を少しでも回復させようと、全力で援護する愛花。


「そうだけど、そうも言ってられないんだよ。俺は指名順位も下だし、社会人からのプロ入りだから即戦力として期待されてたはずだからな」


 高卒は十八歳。大卒は二十二歳。


 けれど社会人で二年の経験がある宏和は二十四歳でプロ入り。今年で二十五歳になる。


 プロ野球の世界でも若さは考慮される。

 宏和と同じ成績の選手でも高卒であれば、それなりに面倒を見てもらえる。


「来年も似たような成績なら戦力外だろうな」


「そんな……」


「悲しそうな顔すんなって。プロの世界じゃ実力がすべてなんだから、そうなるのも当然だ」


 今にも泣きそうな愛花の頭を撫で、宏和は悲壮感をあまり表に出さずに笑う。


「けど、黙って終わるつもりはないぜ。もう一年はチャンスが貰えるはずだからな。悔いのないように全力でやるさ」


「それでこそ宏和先輩だよ!

 そうでなきゃ、放置されてる新妻がかわいそうだしね」


 最後の方はからかいも含まれていた涼子の指摘に、宏和が頬を引き攣らせる。

 新人選手は寮生活になるのだが、社会人出身で新婚の宏和は球団から免除してもいいという話があった。


 けれど野球に集中したいという理由で宏和は寮に入り、愛花は社会人時代からのアパートで一人夫の奮闘を見守っている。


 自分も働いて家計を助けた方がいいのか悩んでいたが、夫の宏和が家を守ってほしいとの理由で首を縦に振らなかった。


 プロ野球選手は家を空けるのも仕事みたいなものなので愛花は納得していたが、恐らく駄目だった場合は地元に戻って親の仕事を継ぐつもりなのかもしれない。


   *


「今日はありがとうな。

 変な気まで遣ってもらってよ」


「宏和先輩のためじゃなくて、愛花のためだよ」


「りょ、涼子ってば……」


 顔を近づけあって不気味に笑い合う二人の会話に、傍で聞いていた愛花が顔を真っ赤にする。


 宏和と愛花が並んで立ち去るのを見送ったあと、菜月の部屋で夕食を取ることになった。


 もう空も暗くなっているし、地元からわざわざ出てきている茉優と恭介は菜月の部屋に泊まる予定なのも理由だ。


「本当にプロって厳しいよな。ボクの目から見た宏和先輩って、かなり凄いピッチャーなんだけど」


「私の目から見てもそうよ。

 ただ、野球とソフトボールの違いはあれど、実業団で日本代表にまで選出されていた実希子ちゃんと比べると、そこまで圧倒的な感じはしないわね」


「あー……菜月の言いたいことわかるかも」


 実業団という厳しい環境にいるからこそ、すんなりと涼子はある意味で残酷な意見も受け入れられた。


「ボクもそれなりに自信はあったんだけど、やっぱり上には上がいるもんな」


 どうやら涼子も思うような結果が出ていないようで、落胆のため息をつく。


「難しいねぇ」


 さすがに茉優も楽観的な表情はしていない。


「仕方ないわ。何事も成功するのは難しいもの。ただ……」


「ただ?」


 不思議そうに聞き返す明美に、菜月は途中で言葉を止めて首を左右に振った。


 もしかすると宏和の中には甘さがあるのかもしれない。

 誰にも漏らさなかった本音を、心の中だけで反芻する。


 もちろん本人は全力でやっているだろうが、頭のどこかには失敗した時の考えもあるように思えた。


「そういえば、はづ姉からは失敗した時の話を聞いたことがないわね……」


 実際は言っていたのかもしれないが、記憶に残っていないということは、それほど強調されていなかったのだろう。


「なっちー、どうしたの?」


「何でもないわ」


 茉優にそう答えつつ、菜月は瞼を閉じる。

 頭の中に並べた不安材料がすべて杞憂に終わってくれれば、言うことはない。


「……頑張りなさいよ」


 眼を開けた菜月は天井の明かりをぼんやり見つめながら、誰にも聞かれないように小さな声で幼馴染にエールを送った。

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