第340話 高木家のお正月

「妊婦の二割はつわりがないらしいし、はづ姉はその中の一人だったのでしょう。変に悩むよりは、喜んでもいいと思うのだけれど」


 正月前から帰省していた妹につわりの件を愚痴ると、当たり前のようにそんな言葉が返ってきた。


 素っ気なさそうな態度を取りながらも、妊婦の葉月よりも知識が豊富な点を考えても、誰より甥か姪の誕生を心待ちにしているのは明らかだ。


 一度本人に聞くという意地悪をしてみたが、その際の答えは読んだ本の中に妊婦や育児に関するものがあったからというものだった。


 葉月に送った本も前々からあったと言い張っていたが、生憎と妹の部屋で見かけたことはないし、誰でもわかるくらいな新品ぶりなので、簡単に騙されるのはよほど心が綺麗な人だけだろう。


 あまりからかって怒らせると口を利いてもらえなくなるかもしれないので、そこまでは口にしなかったが。


 とにもかくにもつわりのない女性もいるとわかったが、すぐには安心できない事情もあった。


「じゃあ、誰かのつわりが感染するっていうか、他の人が取っちゃうことってあるのかな」


「……はい?」


 数秒の硬直を経て、絞り出すような声が菜月の唇から零れた。

 これほどまでに驚きを露わにする妹を見る機会は滅多にないが、葉月も葉月で必死なので構わずに同じ質問を繰り返した。


 聞き間違いではなかったのかと呟き、瞑目した菜月はやがて大きなため息をついた。


「あのね、はづ姉。そんなことがあるわけないでしょう。一体どこから――いいえ、自分で調べるとは思えないから、誰かに吹き込まれたのね。犯人は誰かしら」


 エスパーじみた状況分析を発揮する妹に、姉の威厳すら忘れた葉月は唇を尖らせて「だって実希子ちゃんが……」と質問するに至った状況を説明した。


「……対象が実希子ちゃんならあり得るわね。見境なく欲しがって、手に入れた途端に後悔する姿が世界でもっとも似合う女性だもの」


「ええっ、じゃあ、やっぱり!」


「……冗談よ。私ははづ姉に実希子ちゃんのフォローを兼ねたツッコみを期待したんだけれど」


「妊婦には無理だよう」


「関係ないと思うわよ」


 どこまでも冷静かつ意地悪な妹に反抗心も芽生えるが、それよりも先に確定させなければならないことがある。


「本当に実希子ちゃんは、私のせいで苦しんでるんじゃないんだよね!?」


「誰かのつわりを引き受けるなんて能力、今時のライトノベルの設定でもないから安心していいわよ」


「ふう、なっちーが保証してくれるなら安心だね」


「……私、医者ではないのだけれど」


 葉月が部屋を訪ねてから、菜月はもっとも大きなため息を零しつつ、


「むしろ移るのだとしたら、和也さんの方が危険度は高いわね」


「えっ!? 和也君も妊娠できるの!?」


「そんなわけがないから、落ち着きなさい」


 どちらが姉かわからない会話の中で、菜月が忠告の理由を説明する。


「広く知られてないかもしれないけれど、妊娠中の妻を持つ夫にもつわりに似た症状がでる場合があるのよ」


「それって、正確にはつわりじゃないの?」


「クーヴァード症候群というらしいわ」


「なんか難しい名前だね」


「フランス語ね。確か抱卵という意味ではなかったかしら。古語だったと思うけれど……まあ、広い世界の中には擬娩という習俗もあるのよ」


 聞き慣れない単語の羅列に、葉月は目をパチクリさせる。

 反応だけで姉がよく理解できていないと悟った妹は、軽く肩を竦めた。


「擬娩というのは、妊娠した妻の状態を倣って生活したりすることよ。例えるなら儀式に近いのかしら、あの食べ物を食べては駄目とか、奥さんと一緒に布団に入るとか、苦しみを分かち合うためのものだと私は勝手に推測しているけれど」


「そうなんだ……」


「それをクーヴァードと呼んだから、最初の名称に繋がったという話もあるわね。日本らしく言うと擬娩症候群という感じかしら」


「あ、そっちの方がわかりやすいかも」


 うんうんと頷いてから、葉月は本題とばかりに頭脳明晰な妹に尋ねる。


「その症候群に和也君がかかっちゃうの?」


「脅かしておいてなんだけれど、可能性があるというだけの話ね。理想の父親になれるのかといった不安や、つわりなどの諸症状に苦しむ妻を心配するあまり無意識に同調してしまうとか、そういったきっかけを経て、つわりに似た症状に見舞われてしまうのよ」


「怖いね、で、和也君がかかっちゃう可能性は?」


「これだといった原因がないから、具体的な数字を出すのは難しいわね」


 言ったあとで、菜月はまだ大きくなっているとはわからない葉月のお腹を撫でた。


「要するに和也さんを過度に不安がらせないように、はづ姉はどっしり構えてなさいということよ。幸いにして実家住まいなのだし、何かあってもママやパパが助けてくれるから」


「わかってるんだけどね……そう簡単に心と体がついてこないっていうか……」


「なんとなくわかるわ」


 妊娠という事実は嬉しいのに、徐々に不安や焦りが生まれてくる。

 仕事の負担を増やし、頑張ってくれている夫にはそうした愚痴を吐き辛いので、ここぞとばかりに葉月は妹に頼ろうと決める。


「あっ、実希子ちゃんからだ」


 開いたばかりの口は愚痴ではなく、横に置いていたスマホに表示された友人の名前を呼んでいた。


 もしもしと葉月が言うより先に、実希子の焦った声が部屋全体にまで響いた。


「大変だっ! 旦那が妊娠しちまった!」


「……どうしよう」


 受話口を押さえ、葉月は機械みたいに首を動かした。

 姉の視線を受けた妹はスマホを受け取ると、学生時代にソフトボールのコーチをしてくれた恩人へ冷徹に告げる。


「実希子ちゃん、本当にゴリラになってしまったのね」


「えっ? あっ、なっちーか! そんなのはどうでもいいんだ! 旦那が大変なんだ! つわりが来てるんだよっ」


 まるで葉月や好美が倒れた時みたいな反応で、実希子が入籍した男性をどれだけ大切に思っているのかがわかった。


「少しは冷静になりなさい。普通に考えれば、妊娠できない男性がつわりになるはずないとわかるでしょう」


「で、でもよ、症状がそっくりなんだ!

 正月で病院はやってないし、両親は気を利かせたつもりなのか、兄貴連れて小旅行に行ってるし、ど、どうすればいいんだよっ!」


「落ち着かないと、余計に旦那さんの症状が悪化するわよ」


「ええっ!? まさかアタシのせいなのか!?」


「ある意味ではね。いい、よく聞きなさい。

 さっきはづ姉にも説明したんだけど――」


   *


 天地がひっくり返ったかのように取り乱す実希子に、根気強く説明を終えた菜月が葉月にスマホを戻してきた。


 受け取った葉月は、電話向こうの親友の声が少し落ち着いたことに安堵する。


「私もなっちーのおかげで知ったんだけど、旦那さん方にもつわりに似た症状が出るなんてビックリだよねー」


「まったくだよ、本気で焦ったぜ。

 まあ、うちの旦那は今も、うーうー唸ってるけどな」


「笑いごとじゃないんだけど、大変だね」


「なっちーの話だと、そのなんたら症候群の場合は体に異常がないから、症状に合わせた薬を飲むしかないみたいだな。実際に妊娠してるわけじゃないから、駄目な薬とかもないだろうし、しばらく様子見するわ」


「あんまり治らないようなら、病院で検査してもらうといいかもね」


 ああ、と実希子が頷いた気配がし、直後に安心したのかケラケラといつもと変わりない笑い声が聞こえてきた。


「あんまり智之を心配したせいか、逆にアタシのつわりが気にならなくなったわ」


「ええっ、そんなことってあるの?」


「知らんが、旦那には好美と同じ励ましをして踏ん張ってもらうわ」


「アハハ、優しくしてあげてね」


 電話を切ると、すぐ傍で様子を見守っていた菜月がやれやれと鼻を鳴らした。


「どこもかしこも忙しいものね」


「なっちーだって、真君が苦しんでたら慌てるでしょ」


「別に……。

 と言うと真があまりにもかわいそうだから、一応は肯定しておいてあげるわ」


「久しぶりのなっちーも素直じゃないなあ、うりうりうり」


「ちょっと、はづ姉。身重なんだから、あまりはしゃぎすぎないでよ!」


   *


 母親の手料理に舌鼓を打つ元旦が終われば、二日には実希子や好美、茉優らが訪ねてきて一気に賑やかさを増す。


 わざわざ尚も娘を抱いて来てくれて、妊娠中のことについて色々と教えてくれた。

 葉月は素直に感謝したし、実希子も軽口を叩きながらも喜んでいた。


 妊娠中なので初詣を取りやめたのもあり、新しい高木家で宴じみたお祝いに終始した。


「初詣くらい、いいだろうに」


 滅多に来ない高木家で所在なさげにしている智之を片手で捕まえたまま、禁酒中の実希子が唇を珍しく尖らせる。

 なんとか宥めようとする智之に代わり、おばあちゃんではないが知恵袋を持ってそうな菜月が理由を並べる。


「昔は女性が穢れた生物だと考えられていたのよ。理由は生理などの男性にはない出血によるものね。出産にも血を伴うからか、妊婦は鳥居をくぐるのはもちろん、神社への立ち入り自体が禁止されていたそうよ」


「おいおい、この現代ならただの暴論だぞ」


「だから最近は気にしない人もいるみたいだけれど、神社によってはいまだに根強くそうした信仰が残っているところもあるのよ」


「マジかよ……ろくなもんじゃねえな」


「幸いにして、私たちがいつも利用している神社にそういう禁忌はなかったけれどね」


「じゃあ、初詣に行ってもいいじゃないか」


 すかさず立ち上がろうとした実希子を、今度は好美が視線だけで制止する。


「菜月ちゃんの俗説は抜きにしても、初詣は混雑するから、どちらにしても妊婦が行くのはあまり好ましくないわ。質の悪い風邪を移されるかもしれないし、それこそつわりとかで具合が悪くなったらどうするのよ」


「それは……むう」


「どうしてもというなら、空いている時間を見計らって、旦那さんと一緒にお参りすればいいわ」


 了承こそしたものの、実希子は最後まで未練がましそうに葉月たちを見てくる。


「今年は初めての妊娠だし、私も我慢する。でも、楽しみにはしていたし、来年こそまた一緒に初詣に行こうね。私たちにとっても新年最初の行事になるし」


「……仕方ないか」


「気分だけでも味わいたいなら、色々なことを教えてくれたなっちーを拝めばいいんじゃないかな」


「はあ!?」


 実希子との会話中に、いきなり名前を出された菜月が露骨に嫌そうな顔をする。

 だが逃げる前に、本当に妊婦かと疑いたくなる俊敏さを発揮した実希子に捕まえられる。


「やめてっ、本当に拝まないで!」


「いいじゃないか、アタシにご利益をくれよ」


「ううう、はづ姉、あとで覚えてなさいよっ」


 ちょっとだけしんみりしていたリビングが、すぐに爆笑の渦に包まれる。

 出しにしたのは申し訳なかったが、それでも正月の楽しい雰囲気が舞い戻り、葉月は笑顔で愛する妹に手を合わせた。

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