第341話 茉優の店長代行

 学生の頃は父より遅く起きていた茉優だが、今ではすっかり逆転した。早朝の4時前に目を覚まし、素早く身支度を整えてから、二人分の朝食を用意する。


 香ばしい匂いに導かれて、起床した父親がのそのそと居間にやってくる。


 茉優も社会人になったので家計はグッと楽になったが、それでも引っ越したりはしなかった。小さい頃から住んでいた家というのは、古さとともに多くの歴史が刻まれている。


 この台所に立っているだけで、小学生の頃に親友と並んで炒飯を作ったりしたのが昨日のことのように思い出せる。


「今日も早くから大変だな」


 茶碗に盛った白米に箸をつけながら、父親が半ば定型句になりつつある労いをしてくれた。単純に茉優の身を案じているのか、もしくは会話のとっかかりを探しているのか。


「そんなことないし、お仕事は楽しいよぉ」


 茉優は特に反抗した覚えはないが、父親の友人曰く、年頃の娘は言葉一つ間違うだけで、長年に渡って口を利いてくれなくなるという。その話を聞いた父はこの上なくあわあわし、なにかと茉優の機嫌を窺うようになった。


 何度か変に気を遣わなくてもいいと言ったのだが、子供の頃にお金だけを渡して放置していたのが負い目になっているのか、成長するに連れて過保護じみてきたような気もする。


 もっとも学生時代に朝練の前に早起きしてお弁当を作ってくれたりなど、父も父で時間の許す限り、慣れない家事仕事を担ってくれた。

 菜月と知り合ってからは、和葉ママや春道パパと一緒に茉優を遊びに連れて行ったりもしてくれた。


 そうした日々の中で、いつだったか父は「高木さんの教育を子育てって言うんだろうな」としみじみと語っていたものだ。


「それじゃ、茉優はもう行くねぇ」


「ああ、無理をしすぎないようにな」


 会社で無理をすることもあるからか、父親は決して無理をするなとは言わなかった。


   *


 茉優が出勤する頃には、身重なのにムーンリーフ店長の葉月は厨房で作業に取り掛かっていた。


「茉優ちゃん、おはよう」


「おはようございます」


 ぺこりと頭を下げて、茉優も作業に取り掛かる。


 開店前に葉月が修行していたパン屋のものから、彼女オリジナルのものまで。

 様々なレシピが、正社員となってからの茉優の頭に詰め込まれた。

 種類もそれなりに多く、生地を捏ねるところから始めるので日によっては午前三時前から厨房に入ることもある。


 その代わり、葉月や茉優といった調理担当は早めに帰宅もできる。

 何もなければ茉優も午後八時に寝ることもある。


「うんしょ、うんしょ」


「アハハ、すっかり茉優ちゃんに移っちゃったね」


 マスク越しに葉月が楽しそうに笑う。

 元々というか今もだが、パン生地を捏ねる葉月の掛け声を可愛いと思っているうちに、いつの間にか茉優も気合を入れる時に同様の声を出すようになった。


「えへへ、なんか言わないと仕事してるって気にならなくて」


「わかるかも」


 一緒に捏ねて捏ねてさらに捏ねて生地が完成すると、昨日のうちから冷蔵庫に入れて発酵させたものも合わせて、ゆっくり優しくガスを抜く。

 この作業をパンチと言うのもあって、初めて知った茉優は言葉通りにやってみようとしたら、初めて見るほど顔を青くした葉月に全力で止められた。


 丁寧に生地を切り分けると、僅かな休憩に入る。

 以前は同じく身重の実希子が作業を手伝ってくれていたが、現在は働きたがる彼女を心配して、葉月の夫の和也が加わっている。


 調理が終われば茉優も店に立つが、交代要員もいるので、あちこちに配送して回る和也ほど大変ではない。

 この前、お疲れ様ですと言ってみたら、野球部の狂気じみた練習に比べたらぬるいくらいだと笑っていた。


 考えれば茉優も早朝からの労働をあまり苦にしていないのも、菜月と一緒にずっとやってきたソフトボールの練習に順応していたおかげかもしれない。


   *


 葉月のお腹がかなり大きくなってきて、茉優も何度か触らせてもらっていたある日。近いうちに入院の準備が必要になるかもしれないと、葉月が本格的に復帰できるようになるまで、茉優が店長代行に任命された。


 陰に日向にムーンリーフを支えくれ続けている好美の方がいいのではと思ったが、彼女は彼女ですでに十分すぎるほどの仕事を抱えている。


 実希子は葉月よりも早く妊娠が発覚したので、同時期かそれより前に入院をする可能性が高い。


 和也は配送で店にいない時間が多く、最近では葉月と菜月の母親の和葉が手伝いに入ってくれているが、あくまでも臨時だ。


 そうなると該当者は茉優しかおらず、葉月もそうするつもりでパンの仕込みから熱心に教えてきたという。


 そうした理由から、今朝は茉優が一人で厨房に入った。

 もっとも最初からいきなり全部任せるわけにはいかず、入院するまでは葉月が様子を見守ってくれる。


「なら、まだはづ姉ちゃんが店長のままでいいんじゃ……」


「何事も事前練習が必要だよ。私がいないと思って、頑張ってみて」


 葉月と一緒に調理場に入っていた和也をサポートに、茉優は生地作りを始める。

 頑張って捏ねていると、少し遅れて和葉が出勤する。以前の茉優みたいな立ち位置だが、いるといないとでは大違いなので感謝しかない。


「うん、茉優ちゃんはやっぱり物覚えがいいね」


「えへへ、ずっと教えてもらってたからだよぉ」


 いつもと変わらない流れ作業。

 言うだけなら簡単だが、頭を体に叩きこむまでは大変だし、何より調子に乗っているとうっかりミスに繋がる。


 簡単に取り返せるならまだいいが、おじゃんにしてしまうと商品が減る事態になりかねない。そのパン目当てで来たお客様には失望され、何より売上に直結するので気を抜くのは禁物だ。


 よほどふざけて失敗しない限り、葉月も好美も怒らないが、だからといって甘えすぎるのはよくない。

 むんと気合を入れ直し、茉優はせっせとパン作りに精を出す。


   *


「茉優ちゃんの頑張りのおかげで、なんとかなってるわね」


 朝の混雑期を抜け、一段落ついた店頭で好美が微笑む。

 すでに実希子と葉月は産休を取得しており、茉優にとっては本格的なドキドキ店長代行の日々が始まった。


 今朝は葉月のサポートもなく、茉優と和也、それに和葉の三人で仕込みから完成までこなした。

 もっとも困ればすぐに電話で聞ける体制にはなっていたのだが。


 味見をした和葉や好美にも太鼓判を押されてはいるが、今朝のパンの味が変わってないかドキドキの茉優は、顔馴染みの客にもついつい聞いてみてしまったりもした。


 その場で試食品を食べたお客さんに笑顔で「いつもと同じくらい美味しいわよ」と言われた時には天にも昇る気持ちになった。


「茉優、はづ姉ちゃんがパン屋をしてる気持ちがわかった気がしたかもぉ」


 澄み切った春の空を見上げ、大きく息を吸う。


「そうね。始まりは春道パパとの思い出のプリンを作りたい、だったと思うけど」


「ふえ? それじゃあ、おやつ屋さんになるんじゃないの?」


「私たちも疑問に思ったけど、パン屋が良かったらしいわ。まあ、ケーキ類も売ってるから、純粋なパン屋とはまた違ってるけどね」


 くすりと笑った好美はスレンダーな体形が見事に制服とマッチしており、友人の真が絵にしたがりそうだと思うほど格好良かった。


 売場に戻ると茉優が店頭に立ち、好美は奥に下がる。


 経理を担当する彼女は天気予報をチェックし、曜日も含めた色々な要素を考慮して明日販売するパンの種類や量の提案を行う。それを参考に、最終的には店長が決定するので、代行である茉優の責任は重大だ。


 とはいえ葉月も基本的には好美を信用して任せているので、茉優もそのつもりだった。他にも好美は原価計算をこなし、仕入れを担当し、売価を葉月の希望に応じて決める仕事も担っている。


 知れば知るほど、陰の店長という呼称が一番しっくりくる人物であり、好美が抜けてもムーンリーフは回らなくなる。万が一のために、好美は好美で臨時のヘルプに入っている和葉に助力を求めていた。


 かつては一部上場企業で総務を務めていた才女だけに優秀で、好美が倒れた際は代役を頼めそうだが、当人は若い子の育成も忘れないようにと苦言を呈していた。


   *


「茉優ちゃんは新メニューの発案とかしないの?」


 調理場や器具の清掃を終えると、不意に和葉が聞いてきた。


「はづ姉ちゃんのお手伝いはしたことがあるけど……」


 新しいメニューの開発はパン屋にとって必須事項だ。


 売れ筋の定番メニューが中心とはいえ、ずっと同じだといつかは飽きられてしまう。それを防ぐためにも重要で、葉月を開発に集中させるため、好美や実希子が面倒事を率先して引き受けている節もあった。


「茉優にできるかなあ……」


 不安がっていると、優しく微笑んで和葉が茉優の頭を撫でた。


「葉月だって最初から美味しいパンを作るなんてきっとできないわ。それにいきなり店に並べなくてもいいんだし、まずは葉月が復帰した時に提案するのを目標に考えてみたらどうかしら」


 説明が上手いのか、乗せるのが上手いのか、それとも茉優が単純なだけなのか。

 理由はともあれ、無理難題と思えなくなった茉優はむんと拳を握って鼻息を荒くする。


 ムーンリーフの役に立ちたいのはもちろんだが、大好きな菜月に自分で考えて作ったパンを食べさせたかった。


「茉優、一生懸命頑張るよぉ」


 くわっと目を見開いて両手を突き上げると、遠くの空から菜月の「頑張りなさい」という声が風に乗って届いたような気がした。

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