第339話 葉月の妊娠生活
実希子に続いて葉月も妊娠したということで、ムーンリーフはにわかに活気づきつつあった。
話を聞いたご近所さんがわざわざ店にまで足を運んで、お祝いの言葉を届けてくれる。
まだ辛い症状などはないので普通に仕事をする気満々なのだが、初めての子供ということで葉月以上に和也が過保護になっていた。
「ありがたいんだけど、なんだか逆に大変なような気がする……」
事務所兼休憩室の店の奥で、椅子で体を休めている葉月は、帳簿整理をPCで行っている好美に苦笑を投げかけた。
「仕方ないわよ。和葉ママから話を聞いてても、体験するのは初めてなわけだし」
「でもなっちーと和也君が張り切ってるから、ドキドキする暇もないよ」
連日、妊娠期の注意などを箇条書きでメールしてくる妹や、無事かコールを連発する夫の顔を思い浮かべ、笑みの苦みがさらに濃さを増す。
「電話にはなかなか出られないから、LINEにしてもらって、可能なら返事するって形にはなったけどね」
「そこまでの心配性で、よく葉月ちゃんを束縛しようとしなかったわね」
「うーん……そもそも他の男の人と二人きりで遊びに行くことはなかったし」
「……言われてみれば私もそうね。学生時代の思い出はソフトボールと友人たちとの楽しい触れ合いがすべてだわ」
「楽しかったねー」
「フフ、こんな会話をしてると、つくづくおばさんに近づきつつあるのを実感してしまうわね」
「もうちょっとで三十歳だもんね……」
学生の頃は大人になるということも、あまり明確に想像できなかった。
愛する男性と結婚して、子供を宿した今も幸せなのだが、昔の思い出は美化されるのか、どうしても輝いて見えるのである。
「年齢の話を柚ちゃんに聞かれると、また落ち込んでしまうわよ」
「ひとしきり愚痴ったあとに、教師としての道を究めるって決意するんだよね」
恋愛体質だとばかり思っていた友人が、脇目も振らずに教師道を邁進しているあたり、やはり学生時代の未来予想などあまり当てにならない。
「そういえば、きちんと妊娠届は出した?」
「うん、実希子ちゃんと一緒にこの前出してきたよ」
葉月の返答に、何気なく問いかけた好美が目をまん丸くする。
「実希子ちゃんは、葉月ちゃんより前に妊娠がわかってたはずよね」
「忘れてたって」
今度は頭を抱える好美。
葉月の暴露した事実が、彼女にはとてつもなく衝撃的だったようだ。
「ありえないでしょ……実希子ちゃんのお母さんは何も言わなかったのかしら」
「実希子ちゃんママは、そんなの必要だったっけって笑ってたよ」
「あの娘にしてこの親ありね」
「それ、逆だと思う……」
わかっているとばかりに軽く手を挙げて応じた好美は、そのまま自分の顔を扇ぎ始める。
だいぶ夜の長い季節になってきたが、日が届けばまだ暖かい。屋内で窓を開けてなければ特にそう感じられる。
「ますます葉月ちゃんがしっかりしないといけないわね」
「なっちーや和也君だけじゃなくて、ママもいるから大丈夫っぽい」
「それでも妊娠初期は流産もしやすいんだから、退屈だとしても普段より活動量を落とすのは大切よ」
親友の忠告に、葉月は神妙に頷く。
数多くの人に言われており、だからこそ葉月でなければならない仕事が終われば、こうして好美のところで休憩させてもらっているのだ。
「話は変わるけど、ここもすっかりムーンリーフの事務所っぽくなっちゃったねえ」
「元々、そのつもりではあったし、気にしないで」
店の隣は好美の家であり、二階には彼女の両親が住んでいる。
一階は好美が主に利用していて、現在も居間のテーブルで作業中だ。
着替えの時なども葉月たちは借りていて、実希子などはもう遠慮なく自分の家みたいに振舞っている。
それでも好美は怒るより楽しそうにする。彼女の両親も同様だ。
店に活気が戻って嬉しいのだと、母娘揃って笑顔で葉月にお礼まで言ってくれた。
最近では妊娠中の実希子や葉月のために、横にもなれるソファまで導入された。
「お店のおかげで給料も増えてるし、お母さんは賑やかなのが好きだから。お父さんは若い女性客も多い店を手伝おうとして、いつもお母さんに叩かれてるけど」
「ア、アハハ……家に戻ってても相変わらずなんだね……」
「愚かさと女好きは、死んでも治らないかもしれないわね」
辛辣な物言いに、やはり何て言えばいいのかわからずにいると、実希子が配送から戻ってきた。
「帰って……おえっぷ」
元気さとは程遠い青い顔でキッチンに行き、空嘔を繰り返してもたれかかる。
慌てた好美が背中を摩ると、弱々しいお礼が返ってきた。
「この前から……妙にムカムカしてたんだが……気持ち悪さが酷くなっててな……やたらと匂いも気になるし……」
「だったら家で休んでなよ」
妊娠と出産は女性にとって一大事だ。
出産間近にならなくとも、体調不良による欠勤は受け付けると何度も通知済みだった。
「それはそれで暇でな……」
「あのね……」
眉間を押さえた好美が、葉月にしたのと同じ忠告をこんこんと繰り返す。
弱っている人間には酷だが、こうでもしないと素直に従わないのが実希子なのである。
結局、好美の迫力ある説得に根負けした実希子は、ソファで少し休んでから早退した。明日も出勤すると言い張っていたが、事故を起こしたりすると大変なので、翌日からは市内のスーパーも和也に担当してもらうことになった。
実希子にはしばらく休暇をと思ったが、匂いに過敏になっていると言いながらも、せめて店に立つと言ってきかなかったので、様子を見ながらという話で落ち着いた。
昼の学校には茉優が出向き、好美が店頭に回ってくれる。経理の遅れは葉月や、無理だと全力で首を振っていた実希子が手伝ってカバーする。
「好美ちゃんや茉優ちゃんの仕事を増やしちゃってごめんね」
「気にしないで。むしろ友人二人が新しい命を授かって、私も嬉しいわ」
密かにまだ諦めていない柚と違って、好美は結婚も出産も興味がないらしい。
「父親を見て育ったから、男の人自体を信頼できないのよね」
「唯一の例外がうちのパパだもんね」
「そうだったわね。
でも、前にも言ったけど私は幸せよ、これ以上ないくらいにね」
「そっか」
この話はここで打ち切り、早退した実希子の心配をする。
「いつも元気な実希子ちゃんが、ぐったりしてたね」
風邪をひこうが怪我をしようが、笑顔で暴れ回って周りを冷や冷やさせる女性だけに、先ほどの有様は葉月にも驚きだった。
「葉月ちゃんは大丈夫なの?」
「まだ来てないみたい。今のうちから覚悟を決めておくよ」
*
気合を入れて生唾を呑みながら好美に宣言した葉月だったが、それから日にちが経過しようとも一向につわりらしき症状には襲われなかった。
普段よりセーブ気味だが、今日も今日とて朝からしっかりと仕事をこなし、ソファに腰掛けてから首をゆっくり傾ける。
「どうしてだろ?」
「つわりのこと?」
PCの画面とにらめっこをしていた好美が、顔はそのままで葉月の独り言に反応した。
「うん、全然平気なんだよね」
「……羨ましいこと、この上ないな……」
葉月の隣で仰向けになり、腕で目元を押さえている実希子は心の底からそう思っているみたいだった。
「な、なんか、ごめんね」
「いいさ。葉月までアタシみたいになっちまったら、業務に支障が出るからな」
「その有様で今日も配送に出ようとした人の台詞じゃないわね」
呆れ混じりの好美に叱られ、実希子が「うぐう」と変な悲鳴を上げる。
「妊婦の仕事は無理をしないことよ」
「わかってるけどさ……なんか不安なんだよ。働けないと世間から取り残されてるみたいでさ……」
ぼんやりと天井を見たままで、実希子は言葉を継ぎ足していく。
「アタシがいなくても当たり前に店も世界も回ってる。それを傍からボーっと眺めてるとさ、自分はいらない人間なんじゃないかって思えてくるんだ」
「大丈夫だよっ」
葉月は実希子の手を両手で取り、殊更に明るい声を出した。
「世界が実希子ちゃんを必要しなくても、葉月は絶対に必要だもん。ずっと一緒だし、ずっと仲間だし、ずっと友達だし、ずっと同僚だし!」
「葉月……」
実希子は瞳を潤ませ、
「そうだよな。アタシとしたことがすっかり弱気になってたみたいだ」
「それだけつわりが辛いということね。私が少しでも引き受けてあげられればいいんだけど……」
好美が言うと、慌てて実希子は首を左右に振った。
「辛いからこそ、アタシ以外の誰にも味わわせてたまるかよ」
「なら、実希子ちゃんがキツいのを全部引き受けてるから、葉月ちゃんが平気で過ごせてると思えば?」
「それだ!」
これまでの不調さが嘘みたいに、実希子が上半身を起こした。
トレードマークのポニーテールも、心なしか元気に背中で跳ねる。
「気持ち悪いけど、逆に嬉しくなってきた」
「……とんだマゾっぷりね。これは菜月ちゃんに報告しないと」
「そういう好美はとんだサド女じゃないか!」
軽快なやり取りの中、素直に感謝できずに葉月は頬を引き攣らせる。
「好美ちゃんの理論通りだと、私の罪悪感が半端じゃないんだけど……」
「まあ、気にすんなって……あ、興奮したせいか眩暈がする」
「実希子ちゃん!?」
「ハッハッハ、冗談だ」
「笑えないよー!」
顔を真っ赤にする葉月を、つわりで苦しむ実希子が笑顔で宥める。
なんだかよくわからない光景が終わり、妊娠生活が長くなっても、やはり葉月がつわりに悩まされることはなかった。
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