第320話 菜月の大学生活

 ドアを開けると、春から初夏にかけて季節が移動しているのがはっきりわかる。


 田舎とは違って高い気温と乾いた風に、少しだけ眉根を寄せた菜月は大学へ行くためにロングスカートの裾を翻す。


 大学までは電車で通っているが、隣に住んでいる真ほど長くかからないので心身への負担はさほど多くない。


 むしろ高校までソフトボールで鍛えていた菜月は、もう少し身体を動かしたいと徒歩で大学へ向かうことも多かった。


「おはよう」


 顔見知りになった女性に声をかけられ、菜月も「おはようございます」と挨拶を返す。


 それで終わりだった。


 空いている席に座り、講義を受ける。

 僅かな必修科目の他は選択制で、高校とは違うことの連続でいまだに戸惑う部分も多い。


 外面の良い菜月ではあっても、多くの学生がいる大学で一人一人に愛想を振りまいてはいられない。

 失礼にならないような態度で接し続けた結果、どこか近寄り難いお嬢様みたいに扱われるはめになった。


 たくさん誘われたサークルに所属せず、飲み会なども断り続けたのもあって、教室で多少の挨拶や会話はあっても、プライベートまで一緒という学生はいなかった。


 菜月自身、積極的に友達を作りにいかない性格なのに加え、地方から出てきた身のため知り合いもいないという環境が相まって、一人で過ごすことが多い。

 友人と過ごす楽しさも学生時代に知ったが、元々は読書が好きな文学少女だったのだ。


 あまり寂しいとも思わずに、今日も菜月は一人で講義を終えた。


   *


 ポカポカと日の光に照らされる公園のベンチで、膝の上にハンカチを敷いて弁当箱を乗せて昼食を取る。


 まだ学校のある時間なので小学生は見当たらないが、それでも母親に連れられた小さな子供たちが砂遊びなどに興じている。


 考えてみれば菜月が幼稚園の頃はひたすら本ばかり読んでいた。

 面倒見の良い姉がよく遊んでくれたので、率先して外に出なくても勝手に連れ出されていたのである。

 おかげでソフトボールに興味を持ち、インターハイでベスト8に残れるまで頑張れた。


 焼いたソーセージを頬張りつつ、ほうれん草のおひたしなどにも箸を伸ばす。

 外食も好きだが、大学生活では主に自炊をしている。

 高校時代に葉月の店を手伝って得たお金もあるが、基本的には両親からの仕送りで過ごしているので無駄遣いをしたくなかった。


「……アルバイトでもしようかな」


 インカレのソフトボールサークルで趣味みたいに楽しもうかとも思ったが、どうにも気分が乗らなかった。

 小学生の頃は一人でも張り切って部活に乗り込めたのだが、濃密な部活生活を経た今では、茉優たちがいないと乗り気になれないのだ。


「実希子ちゃんを笑えないわね」


 空になった弁当箱を横に置いていたリュックにしまいながら苦笑する。

 気を付けていても独り言が多くなってしまうのも、ぼっち生活を楽しんでいる弊害かもしれない。


 ソフトボールをやらず、勉強にもなんとかついていける目途が立ってきた。

 そうなると予習復習もいいが、好きな本を読むためと社会勉強のために少しでもお金を稼ぐべきではないかと思える。


「近場にどこか求人しているところがあったかしら」


 銀行の頭取を目指す身としては金銭を扱う仕事がしたいところだが、生憎とアルバイト学生にそんな重要な仕事を任せる企業は存在しないだろう。


「そうなると接客業かしら……」


 太腿に肘をついて、うーんと悩んでいるとバッグの中でスマホが鳴り出した。


「茉優からだわ……もしもし」


 電話に出るなり、聞き慣れた明るいほんわかした声が耳孔に飛び込んでくる。


「なっちーだぁ、わぁい」


「喜んでくれているところ申し訳ないけれど、逆に私以外に誰か出る人がいるのかしら」


「うーんと……まっきー?」


「生憎と今は美大で課題の真っ最中ではないかしら」


 家に帰ってからも課題が忙しいらしく、彼氏でもある真の部屋は結構な散らかり具合になっている。

 一段落すれば自分で勝手に掃除をするので、菜月があれこれと世話を焼くことはないのだが。


「そうなんだぁ、なっちーは何してたのぉ?」


「お昼を食べていたところね」


 特に用件があるわけではないらしい茉優と雑談しているうちに、菜月はふとアルバイトの件を思い出す。


「ねえ、茉優。私がアルバイトするとしたら、どこがいいと思う?」


「ムーンリーフ!」


 元気に即答する茉優の笑顔がすぐに脳裏に浮かんだ。微笑ましくなった菜月は軽く吹き出しながら、茉優ならそうだろうなと納得する。


「なっちー、帰ってくるのぉ?」


「この間、帰省したばかりよ。頻繁に通っていたらお金がなくなってしまうわ」


「なら茉優が奢るよぉ」


 正社員として頑張って働き、時には残業もしている茉優は意外と物欲がない。


 小学生時代に食事を我慢してまで服を買ったりもしていたが、それはその時入れてもらっていた女子グループで仲間外れにならないためだった。

 菜月と行動を共にするようになってからは他人の顔色を窺う悪癖もなくなり、純真で魅力的な少女に復活した。


「必要な時のために溜めておきなさい。いつ何があるのかわからないのだから」


「むーっ! じゃあじゃあ、茉優が遊びに行くよぉ」


「構わないけれど、どうせなら恭介君も連れてきたら?」


「うん、そうするぅ」


 以前の茉優なら明日にでも突撃してきただろうが、彼女も社会人として立派に働いている身なので、あとで予定を合わようと決めて電話を切った。


 直前まで通話していたスマホをぼんやり眺め、菜月はクスッとする。


「きっとこれからもこうして茉優とは繋がり続けるんだろうな」


 そう考えると遠い距離もあまり感じなくなり、いつの間にか胸の奥にわだかまっていた寂しさは消えていた。


   *


「そういう理由で茉優からは聞けなかったのだけれど、真はどう思うかしら」


 夜になって帰宅した真が訪ねてきたので、一緒に夕食を作って食べたあと、リビングでアルバイトの件を聞いてみた菜月はクッションを胸に抱く。

 漫画っぽい可愛らしい犬の顔を象ったもので、お気に入りの一品だ。


「菜月ちゃんがアルバイトか……」


 すぐに答えてくれると思いきや、何故か真が雨に濡れた子犬みたいに悲しそうな顔をする。


「ちょっと、どうしたのよ」


「うん……」


 煮え切らない真に気になることがあるなら言うように促すと、長い逡巡を経てようやく理由を口にし始める。


「菜月ちゃん、可愛くてモテるから、アルバイトなんてしたら僕より格好いい男の人と付き合うんじゃないかって……」


「いきなりネガティブ思考全開ね。さては課題で失敗したのでしょう。真はわかりやすいわね」


 図星だったらしく、即座に真は「うっ……」と言葉に詰まる。


「確か真の美大では午前中に座学があって、午後は実技なのよね?」


「うん、あとはその合間とかに、アトリエで課題の制作かな」


 そのアトリエも個人に与えられると聞いたことがあった。それだけに真面目な真にすれば、余計にプレッシャーがかかっているのかもしれない。


「僕の場合は食事をほとんど菜月ちゃんの部屋でご馳走になってるから、寝るスペース以外を作業場にもしてるんだけど……」


 大学でも家でも頑張り続けても思うような結果が出ず、それが焦りに繋がっていると真は苦笑する。


「覚悟はしていたつもりだったけど、同学年でも僕より凄い人は大勢いる。美大に入れば技術も勝手に磨かれると想像していた僕は甘かったんだ」


「それなら頑張らないとね」


 唇を噛む彼氏に、軽く微笑んでデコピンをする。


「心の底から諦められると思うまでは足掻きなさい。真が努力し続けるのなら、可能な限り支えてあげるから」


「菜月ちゃん……」


「こら、勝手に変な雰囲気にならないの」


 流されかけたところで、再びデコピンを放って自省する。


「ごめん」謝ったあとで真が慌てて顔を上げる。「そうだ、僕、菜月ちゃんの悩みを聞いてたのに」


「それならもういいわ、解決したから」


「え?」


「元々、余っている時間をどう使おうか悩んでいただけだったし、別に欲しい物はないのよ。生活するだけなら仕送りで何とかなるし、貯金も残っているし」


 仕送りに関しては春道だけでなく、ムーンリーフが軌道に乗っている葉月も援助してくれているのが大きかった。

 大学卒業後はお世話になった分、両親も含めて孝行すると決めている。


「食事の世話くらいはしてあげるから、やれるだけやってみなさい」


「菜月ちゃんの負担になっちゃうよ」


「自炊は続けるつもりだったから問題はないわ。

 最低限の食費は徴収するけれどね」


「それなら僕が全部――あいたっ!」


 阿呆なことを言い出した真に、三度目のデコピン攻撃を見舞った。


「画材なんかでお金は入用でしょう。節約できるところはしておきなさい」


「でも……」


「返事は、はい、よ。本当に好きなことを仕事にしたいと思うのなら、ここが踏ん張りどころなのかもしれないでしょう」


「菜月ちゃん……」


 またデコピンをするふりをして、怯える真が目を閉じた隙を狙って頭を軽く抱く。


「限界まで頑張って駄目なら、また別の道を二人で探しましょう。子供の時からそうやってきたじゃない」


「……うん、そうだね」


「真の体調管理のアルバイトというのも悪くはないわ。元々、希望していた金銭を主に扱う仕事は難しそうだったし……そうだわ、いっそ真のお財布も管理すればいいのかしら」


「な、菜月ちゃん……?」


「フフ、冗談よ」


 この場はそれで終わったのだが、後日、真が自分の母親にうっかりその話をしてしまった際、何故か賛同され、気が付けば本当に菜月が管理するはめになった。

 色々と外堀を埋められているような気がするのは、きっと菜月の考えすぎではないだろう。


 それでも仕方ないわねと受け入れられるあたり、なんだかんだで真が好きなのだと菜月は改めて自覚するのだった。

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