第319話 春道と和葉のアパート生活

 家族全員で最初の解体作業を見守ってから数日が経過し、慣れるとまではいかなくとも、徐々に春道にも普通の日常が戻りつつある。


 PCさえあれば仕事はどこでも滞りなく可能で、納期はあれども出社時間はないフリーという立場なのであれこれと融通もきく。


 普段は頼りなさ満点の肩書でも、家族サービスをしたり、今回みたいな特殊な事情の際にはかなり役立ってくれる。


「おはようございます、春道さん」


 一階に降りると、すでに愛妻の和葉が朝食の用意をしてくれていた。

 数日前までは次女の菜月が宿泊していたが、すでに東京へ戻ったので二人きりの生活になっている。


「場所が変わっただけなのに、なんだか和葉のエプロン姿が新鮮に見える」


 ジーンズとパーカーというラフな格好に愛用の白いエプロンをつけている。

 機敏な動作のたびにライトブラウンのミドルヘアーがふわりと揺れ、仄かに甘いシャンプーの香りが漂う。


「朝から変なこと言ってないで、顔を洗ってきたら」


 苦笑した和葉に見送られ、洗面所で顔を洗って歯を磨く。


 鏡に映る自分の後ろには、元の家に負けないくらい年季の入った壁がある。

 ドアも木製だったり、襖だったり、トイレも最近洋式になり、バスルームも新しく設置されたらしかった。

 高度成長期の前に建築されたらしく、コンクリートのアパートは二階建ての部屋が無数に並んでいる。


 家賃も劇的に安いが、住めば都といえども新しく住むにはあまり快適とは言えない。にもかかわらずどうしてここを選んだかといえば、隣同士で二軒空きがあるアパートがここしかなかったからである。


 新居が完成するまでも同居したがった葉月を、和葉がせっかくだから和也と二人で生活しなさいと説得した。


 不承不承頷いた愛娘が示した条件が、せめて隣に住みたいというものだった。

 元々、子供が大好きな和葉である。そう言われると嫌な気はしないらしく、春道が口を挟む前にとんとん拍子で現在の形になるのが決まっていた。


 美味しそうな匂いに鼻腔を擽られ、春道の腹の虫が元気に鳴く。

 居間に入ると、白米と卵焼き、焼き魚に味噌汁、生サラダといった実に健康的なメニューが座卓に並んでいた。


「今日も美味そうだな」


 牛乳などを並べるのを春道も手伝い、準備が終わったところで揃って席に着く。

 二階にある二部屋は寝室と書斎に使っているので、それ以外の用事は一階で済ませる。


 居間の奥にあるもう一つの部屋は、菜月の宿泊場所に使っていたが、帰省した今では物置替わりになっていた。


「ありがとう。冷めないうちにいただきましょう」


 白米は春道の好みに合わせて少し硬め、卵焼きもカリッと焼かれている。

 魚はシャケの切り身で、ほぐして白米と一緒に食べれば、丁度いい塩加減とふわりと新緑に似た爽やかな香りが口内に広がった。

 野菜を混ぜた塩ダレの破壊力にはふはふと湯気を吐き出しながら、幸せな気分と一緒に嚥下する。


 これだけで一日の活力が湧いてきて、改めて朝食の大切さを実感できた。


「葉月はきちんと仕事に行ったのか?」


「和也君と一緒に出掛けたみたいよ」


 春道も起きるのは午前6時代と早いのだが、朝の作業もある葉月はもっと早い。

 学生が通学途中で購入するのもあり、春道が起きる時間には仕込みを終えて焼き作業に入っているはずだ。


「繁盛してるのはいいことだけど、体には気を付けてほしいよな」


「そう考えると実希子ちゃんや好美ちゃん、それに和也君が手伝ってくれてるのはありがたいわね。春からは茉優ちゃんも正社員になってくれたし」


「そのことで茉優ちゃんのお父さんに感謝されたんだっけか?」


「葉月は恐縮していたわ。菜月の話では小学生の頃と違って、茉優ちゃんも高校卒業のあたりではかなり勉強ができるようになってたみたいだから」


「一緒に受験もしたもんな。菜月も茉優ちゃんと一緒にキャンパスライフを送りたかったろうに」


 菜月の頭には茉優も進学できそうな県大学もあったみたいだが、東京の大学に合格したことで結局は離れ離れになった。

 茉優自身がそうすべきだと、強く菜月に勧めたのもきっかけになったらしい。


「頻繁に連絡は取ってるみたいだけどね。最近ではテレビ電話もあるし」


 スマホに限らず、PCを使えば顔を見て会話したりもできる。


「そうだな。それに菜月も茉優ちゃんも彼氏がいるしな」


 話を聞く分には、二人とも上手くやっているみたいだった。


「この分だと菜月の結婚は早いのかな」


「どうかしら。あの子の場合、一途というか、興味ないことに振り向かないタイプだから、真君以外を選択肢に含むことはなさそうだけど……」


「確か銀行の頭取になるのが野望だったか」


「女性初ではないけど、かなり珍しいというか難しいけどね」


「金に執着しそうな性格とは思わなかったけどな」


「頭取というのは建前で、本音は会計として好美ちゃんと一緒に葉月の仕事を手伝いたいのでしょう」


「二号店、三号店とできることになれば、本店の経営陣も忙しくなるだろうし、好美ちゃん一人じゃ、てんてこ舞いだしな」


 食事を終えて箸を置くと、唐突に和葉がクスリとした。


「ん? どうかしたか?」


「フフ、二人だけの生活になっても、やっぱり話題は子供たちのことなんだなと思うと、なんだか少しおかしくなってしまって」


「言われてみればそうだな」


 今日だけでなく、もう十年以上もこんな感じなので特に疑問は抱いてなかったが、もしかすると和葉はもっと自分を見て欲しがっているのかもしれない。


「じゃあ今から和葉の好きなところを百個ほど言っていくことにしよう」


 朝から止めてくださいと照れてくれるかと思いきや、いつになく和葉は悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「百しかないの? 私は千はあるわよ」


「そうきたか、なら俺も負けてられないな」


 年甲斐もないと誰かに笑われたとしても、こうして愛する妻とじゃれ合うのは春道にとって大切な時間の一つなのだから、止めるつもりは毛頭なかった。


   *


 夕方近くになって仕事も一段落すると、春道は和葉と一緒に買い物へ出かける。


 元の家からあまり離れていない立地ではあるが、ご近所さんとほとんど面識がなかったので不安だったが、良妻賢母の和葉は短い時間でとりわけ老婦人の心をガッチリ掴んでいた。


 外へ出るなり、数人で話をしていた老婦人たちに声をかけられる。


「今日も二人でお出かけかしら」


「はい、主人と買い物です」


 嬉しそうに返事をする和葉に、先方も目を細める。


「素敵な奥さんで旦那さんは幸せね」


「ありがとうございます」


 事実なので謙遜する必要もなく、素直にお礼を言う。


 昔ならこうした出来事のたびに照れていた愛妻だが、慣れてきたのか笑顔を崩さなくなっている。

 少しだけ寂しいが、妻も喜んでいるのがわかるので、まあいいかと春道も受け入れる。


 周囲に人目がなくなると、こっそり手を繋いでみたりもする。


「なんだか付き合いたての中学生カップルみたいね」


「たまにはこういう甘酸っぱさもいいだろ。当時は経験できなかったしな」


「あら? そうなの?」


「わざとらしく聞くなよ。俺は和葉に初めてを捧げまくった男だぞ」


「外ではやめてね」


 笑顔で釘を刺され、春道は歩道を歩きながら肩を落とす。

 すぐ隣で春の化身のような香りを振り撒いている愛妻が、僅かに微笑んで春道の耳に唇を寄せた。


「春道さんだって、たくさんの私の初めてを受け取ったでしょ」


 赤面を隠すようにすぐ離れ、口笛でも吹きそうにお澄ましをする妻が愛しくて、危うく春道は公衆の面前で抱き締めるところだった。


   *


 運動も兼ねて遠回りしてスーパーまで歩き、買物を終えて帰宅すると一緒に料理をする。


 二人で立つと台所は狭くなるが、近い距離から会話しながら共同作業をするというのもなかなか楽しい。


 邪魔にならないように和葉の指示に従い、野菜の皮むきなどをピューラーを使って担当する。


 今晩は久しぶりにカレーで、春道も大多数の人間と同様に好物の一つだった。


「あー、またパパとママがイチャイチャしてる」


 カレーが完成する頃になって、仕事を終えた葉月が帰宅してきた。

 自分たちが契約している部屋ではなく、真っ先に合鍵を使ってこちらに来るのがなんとも甘えん坊な長女らしい。


「夫婦なんだから構わないでしょ」


「ママってばどんどん開き直るようになってるよね。仲が悪くなるどころか、どんどんパパを好きになってるんじゃない?」


「そうよ、でも葉月にも和也君がいるんだからいいじゃない。春道さんは私のよ」


 にっこり笑った和葉はなんとも小悪魔チックで、冗談だとわかっていても隣にいる春道はドキッとしてしまう。


「決して冗談じゃないわよ」


「――っ!」


 春道の心を見透かしていたらしい愛妻に囁かれ、いつになくこちらが顔を茹蛸みたいにするはめになった。


「ウフフ、さあ、ご飯にしましょう」


 葉月たちが帰宅する時間を見計らって料理を完成させ、和也も含めた四人で夕食を取る。


 その後は夜まで元の家同様に談笑を続け、午後十時以降に葉月たちが帰ると、また二人きりの時間が訪れる。


「ねえ、春道さん」


 電気を消した布団の中、隣に敷いていた自分のところから、和葉がそっと抜け出してきた。

 向かい合う形になって愛妻を抱きしめると、胸に小さく体重がかけられた。


「私、とても幸せよ」


「俺もだ。いつもありがとう、愛してる」


「私も愛してるわ」


 互いの体温と愛情を飽きもせずに確かめ合い、春道はきっと今夜も幸せな夢を見られる確信を抱いて眠りに落ちた。

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